人生でたった一度だけ口にした「死んで欲しい」
「人生が変わった瞬間」という言葉をたまに聞くけれど、人生なんて絶えず変化し続けていて、その「変わった瞬間」の積み重ねが現在なのだと考えている。
だから、過去を振り返ったときに「人生が変わった」と思える瞬間があるか否かは、それらの瞬間に自覚があるかどうかという話なのだと解釈している。
そのような前提があった上で、
「あなたの人生が変わった瞬間はいつですか?」
という質問に答えなければならないとしたら、
「五歳のとき、母親に死んで欲しいと言ったときです。」
と答えるだろう。
* * *
その日、幼稚園が終わり母親がお迎えに来てくれていた。
年少さんの私は、お友だちと園庭で遊んでいた。
母親に「そろそろ帰るよ」と催促されても、もう少しだけと言って元気に走り回る。
そんなやり取りを何度か繰り返してした後、ついに母親の堪忍袋の尾が切れた。
まだ遊びたいと駄々を捏ねる私を引っ張り、半ば無理矢理家に連れ帰る母。
帰路の途中にある大きな交差点で信号待ちをしているとき、不貞腐れた私は母親にこう言い放った。
「もう、お母さんなんて死んで欲しい!」
五歳だった。
その言葉の意味なんて大して分かっていなかった。きっと、誰かの真似をして言ってみたんだと思う。
しかし、母は真剣だった。
五歳児の浅はかな言葉を聞くや否や、顔を真っ赤にしながら
「じゃあお母さん死んでくるから!」
と言い、車が高速で行き交う大きな交差点の中央に向かってずんずんと歩き出したのだ。
「母が死ぬ」という恐怖に大泣きしながら、少女は歩みを止めない母の元へ掛けより「死なないで」と叫びながら必死に縋りつく。
ようやく足を止めた母親は私の目を真っ直ぐに見つめながら、
「『死ぬ』ってね、こういうことなんだよ!!
分かる?今あなたがお母さんに言ったのはこういうことなの!死んで欲しいなんて絶対に人に言っちゃだめ。」
と言い聞かせた。
* * *
あの時の「お母さんが消えてしまう」という絶望感、恐怖は感覚として今でもはっきりと覚えている。
そして、あの日から今までその言葉を口にしたことは一度もない。
「死ぬほど◯◯」という表現さえ使わない。
「言葉」というのはただの音ではなく意味を持つものであって、いつだって自分が生きる現実と繋がっているのだという感覚を理屈ではなく実感として植え付けられた。
それは、表現を変えると「言霊」であろうか。
その言葉が現実世界において何を意味するのかに気を使うとともに、どんなときも出来るだけ明るい言葉を使おうとする意識も、この感覚から来ている。
言葉は大きな力を持っていると思っているし、その力を信じている。
使う言葉によって私はできている。
私はそんな人間だ。
それは良くもあり悪くもあるのだろう。
何にせよ、あの日のあの交差点での出来事が、母の言葉が、その後の私の言葉に対する考え方の土台となっている。
五歳にしてそんな「人生を変えた瞬間」に出会えて良かったし、これからも良かったと思える生き方でありたい。
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