【シロワッサン】かつて天才だった俺へ。
過去の自分(9歳と6歳の頃の)天才的な作品を紹介していきたいが、少しだけ。大人になる悲しさを愚痴らせてほしい。
作品は下の写真載ってるところからです。飛ばして〜
大人になるとは、どのようなことを指すのだろうか。
20歳を迎えた朝に急激に子供心がなくなったわけでもないし、就職をして安定的な生活を送ることもまた大人になった証明にはならないだろう。
結論を出すには早すぎるのかもしれないけれど、あえてオトナらしく結論を先に述べてしまおう。
天才だったころの自分と今の自分を比べてみると、「何かと理由が必要になる」気がするな。
空が青いのも、星が輝くのも、虹がかかるのも、蝉が鳴くのも、正義も悪も、愛の正体も、ぜんぶに理由をつけたがるようになった。光の屈折率とか宇宙の不思議とか遺伝子の仕組みとか人間関係とか社会の不条理とか生と死の違いなんて、理解する必要なんてなかった頃。あの頃の世界は、毎日が未知に満ち満ちていた。子供心は無くしていないようだ。知れば知るほど、見れば見るほど、聞けば聞くほどこの世界は不条理と残酷さに寄って複雑化されていることに気づく。ありのままの自分じゃ生きていけないんだと思わされる。背伸びをし続けた人が一等賞のこの世界で、誰もがペルソナを被って生きている。
話は少しそれるが、僕はいつだって人の仮面の下を見れるように努めている。
僕は比較的「変わっている」と言われることが多い人種なのだが、その言葉には「社会から逸脱した思考回路をお持ちなんですね」という意味が備わっていることも知っている。僕は世間に合わせるのがとても苦手だ。人と同じことをやるのは抵抗感があるし、また人に合わせられることも好まない。自分の欲求はいつだって普通からずれているところにあった。普通に合わせるためのペルソナと、自分らしさのペルソナと、あの人用のペルソナと、この時用のペルソナ。いつだって求められている形に変えている。本当の自分がどこにいるのかはわからない。今書いている文章も、世間に見せられる部分だけを摘んで書いている。そんな文章の何が美しいのかもわからないのだけれど。
社会とは多くの人が公助できるように仕組み化されたホモサピエンスの群れである。それぞれの意志は当然多様化するため、意見のぶつかり合いだって起こる。そんな時に優先すべきは感情ではなく合理なのだと民主主義の父は言う。皆が求めていても、求めている分だけ切り分けられるほどケーキは大きくないので、ケーキが欲しい人はどんな理由があって自分にケーキを得る権利があるのか主張しなさいって話さ。社会を、秩序を保つために、論理的な理由は必須の武器になる。そして世界はそんなもので飽和している。世界の不思議を明かすのにも、会社で働くためにも、友達を作るのにも、恋愛をするのにも、遊びに行くのにも、大人には理由が必要だった。そして僕もそうなりつつあるのかも知れない。悲しいことに。
まだまだ子供心を忘れたくはない。そう願っている時点で既に…というのは考えずにいきたい。
子供心に溢れていた頃の自分は天才だ。頭の中でなんだって実現できた。天才の僕を見ていってください。
小学3年生。「オレはカマキリ」の詩に倣って自作の詩を書いて発表する授業で書いた詩だ。
ここまでは小学校3年生だったが、おまけに小1の時の日記と、お店やさんごっこをした時の商品、そして1番初めの通知表。
当時は真面目にシロワッサンを食べてみたいと思っていたものだ。