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底には何がある?

作家のアナイス・ニンがフランスに住んでいた頃、同じく作家のヘンリー・ミラーと、パリで待ち合わせをしたことがありました。

約束の公園に早くに着いたニンは、バッグから本を取り出し、木にもたれて読書を始めます。
ほどなくしてミラーが現れ、ニンに声をかけました。

ほとんど面識もないのになぜ自分のことがわかったのか、と不思議がるニンに、ミラーは笑って答えたそうです。
「公園で立ったままロレンスを読む人なんて、あなたくらいしかいないだろうから」


共に既婚者だった二人はその後、ミラーの妻ジューンも加えた、倒錯的で美しい恋愛関係に陥ります。
その始まりに印象的な役割を果たしたD.H.ロレンスの小説が、二人の辿る道筋も暗示するという、必然的な偶然がそこには潜んでいます。

ニンの死後に出版された『日記』にはその顛末が赤裸々に綴られており、それがあまりに息詰まるようで素晴らしいため、いずれご紹介することもあるかもしれません。


ニンほどの読書家には遠く及ばずとも、私も待ち合わせには必ず本を持参しますし、周囲の環境とは無関係に、活字に没頭できるタイプです。

先日、大学で心理学を教える教授とカフェでお目にかかった際も、もちろん文庫本が手元にありました。

私のそんな習慣を知る教授は、話が一段落した折、おもむろに質問を口にしました。
「今、何を読んでいるんですか?」
「『休戦』です、プリモ・レーヴィの。読んだことありますか?」


教授が首を横に振り、作者の名も初めて聞いた、と答えたため、私はその本について、かいつまんで説明します。

「作者はイタリア在住のユダヤ人科学者で、アウシュヴィッツの生存者です。その人がアウシュヴィッツ解放後に、故郷を目指しながら色々なものを取り戻していく、レジリエンス回復、復活について描かれています。
ちなみに、一作目は『これが人間か』っていう世界的なベストセラーで、今作はその続編に当たります」
「『夜と霧』のような話なんですね?」


すかさずヴィクトル・フランクルの名著を上げるあたり、さすが心理学の専門家といったところでしょうか。
「はい。ホロコースト文学の代表者っていうと、アンネ・フランク、ヴィクトール・フランクル、それにプリモ・レーヴィの3人は必ず名前が上がるんです」

その答えにうなずきつつ、教授はしみじみと私を見つめ、いかにも疑問らしく尋ねました。
「でも、一体なぜ、わざわざそんな本を読むんですか?」


まったく、その通りではあります。
世の中には、もっと快適かつ幸福な、美しい物語があふれています。
そして私は、ホロコーストの関係者でも、研究者でもありません。

それなのに、なぜ好き好んで、そのような悲惨な話ばかりを読み進めるのか。
疑問に思われて当然です。


『〈ポストカード〉あるいはほんの少しのユダヤ人』という、私が以前書いた話を読んでくださった方には繰り返しになりますが、私は"ホロコースト文学"に否応なく引きつけられ、これまでに日本語で読めるめぼしい出版物には、出来うる限り目を通してきました。
支配者、被支配者の区別、国や年齢や性別、どのような境遇にあった人かも問わずです。

それは私の中では理屈や説明のいらない行為ですが、人からすると、確かに怪訝けげん極まりないことかもしれないと、教授の質問で改めて思い至りました。


それでは、いかにして自分の心境を他人にも納得できるように伝えるか。
なるべく本質的な言葉をと考えつつ、私は口を開きます。

「多分、知りたいんだと思います、人間の成し得る悪や、狂気の極限みたいなところを。それに、そこでは全く正反対のものも見られて、自分の命と引き換えにでも、他人のために行動するっていう人たちが必ずいます。それは、人が持つ最高の崇高さだと思うんです。
でもそういったものは、普段は奥底に押し込められたり、ひた隠しにされて、究極的な状況にでも陥らない限り、絶対に現れないものでしょう?」
「それは確かにそうですね」
「私は他の人よりも、そういうものに対する関心が強いのかもしれません。どうしても知りたいんです、人間の本性とか、極限状態で、どんなことが起こるのか」
「わかります。僕が診察室で見ている地獄を、あなたは物語を通して覗いているんですね」


教授が口にした言葉について補足をすると、以前私は教授から、人が心を病むというのはどういうことか、長い話を聞く機会がありました。
そこで教授が繰り返し口にしたのが、人間の心こそが地獄である、狂気に陥った人たちは、皆一人残らずその恐ろしい地獄で生きている、ということです。

「僕が全くその類の本を読みたいと思わないのは、僕の現実の中に、すでに十分過ぎるほど同じような世界があるからでしょうね。
でも、今あなたの話を聞いていてつくづく思ったのは、物語の重要性です。誰しも、もっと本を読むべきですね」
「今の自分からは遠いものに触れるため?」
「そうです。いくら海外へ行って100カ国を回ったとして、文化風習は学べるけれど、人間の奥深くの部分に触れられる訳ではないでしょう?そんなことは不可能だし、もし人間について底まで知りたいと思うなら、本や物語の中で、別の人の人生を追体験するしかないでしょうね。人は結局、自分の人生では一つの目や、一つの世界しか持てないんだから」
「フランスの言い回しにあります。 "バルザックを読む者は人生を4倍生きる"」
「まさにその通りです」


実は少し前、私も『物語は置き薬』という、同じテーマの話を書いたんです、と言おうとしてやめにしました。
もう必要なことは話されていましたし、その内容を説明しても、繰り返しにしかならないと思ったからです。

ちょうど、注文した和栗のモンブランも運ばれてきたところでしたし。


診察室や本やどこかの室内、あるいは路上でも、人間や人生について学べることは数多く、とりわけ『休戦』のような世界を知るにつけ、生きることは何と稀有なことかと思わされます。

もしかすると、それこそが私がホロコースト文学から得た、最も大きな学びかもしれません。
次にお会いした時、教授にも是非そう話さなければ。



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