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修道院スイーツ

 井上ひさし氏の小説に「モッキンポット師の後始末」というものがある。カトリック学生寮の“不良”学生3人組のドタバタと、いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきる指導神父モッキンポット師を描いた小説だが、かなりの部分は井上ひさし氏の実体験だと言われる。モッキンポット神父のモデルは、自分であると上智大学のポール・リーチ神父自身が言っていたそうだ。

 さて、私の師も、カソリックの神父だった。文学部の教授だったのだが、在学当時学長も務めておられた。終戦直後の井上ひさし氏ほどではないが、いろいろやらかした私にとっては、「モッキンポット師の後始末」を読むと、自分の学生時代と重ねてしまう。

 さて、勉強はイマイチだが、いつも研究室に入り浸っていた私のおやつは、修道院製のおやつが多かった。トラピスチヌ修道院のクッキーやトラピスト修道院バター飴などは、ほぼいつでも口入れることができた。なにせ、うちの先生には、日々、全国の修道院関係者が訪れ、それぞれが自慢のクッキーだのビスケットだのを持参してくるのだ。そのおこぼれを頂戴できるのだから、今から思えば、ずいぶん贅沢なことだった。

 修道院のお菓子の中でも、「ポルボロン」(ポルポローネ)を初めて食べた時は、感動した。ほろほろと口の中で、もろくもとろけていくクッキーなど、大学生になるまで食べたことがなかったのだから。

 4年間、神父のそばにいながら、宗教に帰依することもなく、ミサもクリスマスの時くらいしか出席せず、ろくでもない学生として4年間を過ごしたわけだが、修道院スイーツには参ってしまった。

 味も素朴だし、パッケージも古めかしい。しかし、それが良いのだ。原材料の表示だって、カタカナの訳の分からない材料など一つもない。味も、いたってシンプルで、ほっとするが、派手さも、力強さもない。つまり、普通なのである。その普通さが良いのである。なにも入れていない牛乳を飲みながら、食べれば至福の時を過ごすことができる。

 想像してみたまえ。修道士や修道女が、静かな修道院の中で、コツコツとクッキーやガレットを焼き、飴を混ぜているのである。おいしくないはずがない。わが師の素晴らしい教育で、私は宗教ではなく、修道院スイーツに帰依してしまったのだ。

 トラピスチヌ修道院のクッキーやトラピスト修道院バター飴などは、北海道のお土産物屋にも置いてあって、買いやすい。しかし、それ以外の修道院のスイーツも、なかなか捨てがたいのである。

 東京の四ツ谷にある聖イグナチオ教会の売店やその周辺にあるキリスト教製品を売る店を覗くと、たいてい修道院製のお菓子が売られている。京都の四条河原町の大丸百貨店の裏の錦小路を少し西に行ったところにあるタキノという酒店は、関西の修道院のおやつが揃っている。さらに、愛知県の多治見修道院の売店に行けば、おやつだけではなく、この修道院で栽培した葡萄から作ったワインまでが手に入る。私としては珍しく、歴史ある聖堂で、わが師に感謝の祈りを捧げてきた。

 もちろん、こうした売店に行く時は、どのクッキーにしようか、でもガレットも外せない、いやポルボロンも2袋は欲しいなどと我欲にまみていることなどおくびにも出さず、いかにもカソリックの大学を出た紳士然とするのである。いや、いいのである。これによって、修道院の運営の少しばかりの足しになるであろうし、なにより体に優しいおやつばかりなのである。四ツ谷も、京都も、多治見もそう頻繁に行けないので、買ってきたおやつは誰にも譲らず、大切に一人で、時間をかけて楽しむのである。

 そういえば大学生時代、気候の良い頃に、師に誘われて四ツ谷から市ヶ谷に散歩に出かけたことがある。途中に散髪屋に寄り、住宅街の中を二人でゆっくり歩いた。ちょうど夕餉の支度をしている家々から料理の香りが漂ってきていた。「先生、ここはカレーですね。お、こちらは焼き魚ですかね」などと言っていると、ついに師が噴き出し、「ちゃんと食べさせてあげるから、恥ずかしいから黙りなさい」と言われた。

 もう天に召されてしまったわが師は、きっと「教会にも通わず、おやつばかり食べているのか、全く。どうも教育を間違ったようだ」と笑っているに違いない。

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