研究:国際関係と仏教について(5)
さて、前回お話ししました「悪い奴」を生み出すメカニズムなんですが、これについては国際関係学の構築主義的な視点からさまざまな研究がなされてきました。これは別に「悪い奴」を生み出すメカニズムだけじゃなくて、例えば「低開発」や「開発途上」といったイメージも同様に作られているわけで、そうした研究の中で最も大きな衝撃をもたらしたのがエドワード・サイードの『オリエンタリズム』です。彼の議論はその後のポストコロニアル文学批評などの中で十分に展開されてきましたが、簡単に言うと「低開発」は本質的に低開発なのではなくて、「先進国」との対比の中で「低開発」となる、というような話です。サイードは「西洋」との対比の中で「東洋」が形作られていく様を詳しく分析するわけですが、この枠組みはさまざまな場面に適用できると言えます。
こう考えますと、さまざまな概念は対比の中で構築されることが明らかになってきます。つまり、これが研究:国際関係と仏教について(2)で言及した存在は関係によって作られる、という話です。このアプローチは近年広く関心を集めており、実際2024年のISA (International Studies Association: アメリカの国際学学会)のテーマは『Putting Relationality at the Centre of International Studies』というものでした。2024年は初めてISAで関係性がメインテーマとなった記念すべき年になったわけです。ちなみに今年は『Reconnecting International Studies』とこれまた関係性分野のテーマとなっています。最も、今年のテーマは世界的な「分断」の問題からの関係性だとは思いますが。
で、関係性については国際関係と仏教について(2)で述べたように、さまざまなアプローチがあって、東アジアからは儒教系の研究が結構発表されています。これはアメリカの構築主義系の関係性論と重なるところがあって、Jackson & Nexon (1999)がさまざまな関係性論のスタートだと言われます。じゃ、どこが重なるのかというと、関係性を通して一旦構築された概念やイメージは長く維持されることが前提とされていることです。つまり、「西洋」「東洋」というようなイメージは対比を通して構築されてしまうと、もう出来上がった形で永続的に続いてしまう、という考え方です。Jackson and Nexon (1999)はこの前提を通して主として国家のことを述べているわけですが、いずれにしろ構築されたイメージは簡単には崩せない、という前提があります。儒教系のアプローチも同様で、君主と家臣、夫と妻などの関係は、一旦出来上がってしまうと、ずっと続いてしまうと仮定されています。
こうして関係性を通して世界を見ていくと、これまで見えなかったようなものが僕たちの目の前に現れてくることになります。例えば「悪い奴」は生まれながらに「悪い奴」な訳ではなく、さまざまな関係性の結果「悪い奴」に「なる」と考えられるわけです。この考え方は画期的で、ある意味国際関係学という学問をひっくり返すような話なんですが、そこに同時に問題もあります。というのも、いろんな関係性が人格形成とか国家構築に影響してるとして、で、何なん?という疑問、いわゆるand-then-what-questionと呼ばれる疑問が出てくるわけです。アメリカの構築主義なんかから言うと、こうやって国家は構築されているんやけど、まぁ、それやったとしてもこれまでの理論が言うような形で行動してる訳だし、これまでの理論はそれはそれで有効だよね、と言う結論になる訳です。Alexander Wendt の Social Theory of International Politicsはこのタイプに入ると思います。
これに対して、世界が構築されているのはわかるけど、問題はその世界が不正義と不公正によって特徴づけられることの方なんじゃないの?と言う意見もありえます。僕なんかはこちらの方により親近感を持つのですが、この視点から言えば世界が構築されることの倫理的な側面が重要となってきます。つまり、今の構築され方で良いのか?世界が構築されていく中で、なぜ不正義や不公正が終わらないのか、と言う点に注目する訳です。そして僕がその意味で注目するのが、仏教なんです。が、またちょっと書き過ぎちゃいましたね。いよいよ!ってところなんですが、今回はこの辺で。(終)
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