向日葵に見下ろされて
僕の思い出せる一番古い記憶は、高々と僕を見下ろす向日葵畑だ。
初めては物心が付く前だった。両親に連れられて、車に乗って向日葵畑がある牧場を訪れた。
それは我が家の夏の恒例行事になり、幼稚園に入った頃からの分は断片的に思い出せる。いつも楽しみで仕方がなくて、「早く行きたいよ。次はいつ行くの」と何度も繰り返し言っては父を困らせていた。
自宅のある文京区大塚から護国寺ICに入り、高速道路に乗る。早起きをして朝8時に家を出れば、オープンの10時に間に合った。
乳牛やポニー、山羊やうさぎなど、たくさんの動物と触れ合うことも出来るし、キャンプ場でバーベキューを楽しむことも出来る。ひとりっ子の僕が成長するに連れて、一緒に出来ることも増えて行くから、両親にとっては子どもの成長をわかりやすく感じられる場所だったようだ。そして、その象徴が向日葵畑だった。物によっては2mを超える向日葵と僕の写真を毎年撮り、少しずつ縮まって行く差を目に見えるように並べて、コメント付きでアルバムに収めて行くのが両親の楽しみだった。
その恒例行事は僕が中学校に入った年まで続いた。中2の時にそれが途切れたのは、僕が拒否したからだ。反抗期と言えばそうなのかも知れない。でも、その時の僕にとってはそんなに簡単な話では無かった。
中学校に入り、僕はバスケ部に入った。運動はそれなりに出来る方だったし、足の速さにも自信があった。だから、きっと出来るって思っていた。けれど、その想いが挫折に変わるのには、それほど時間は掛からなかった。
一番のウィークポイントは、身長だった。両親が共に成人男女の平均身長を下回るのだから僕だけがそのDNAに逆らうことは許されず、中1で入部した時の身長は140cmそこそこで、一般的な中1の平均身長より10cm以上下回っていた。バスケ部の先輩や同級生は背が高くて当たり前だったから、僕の小ささはことさらに目立った。手足も短く小さかったせいで、ドリブルも上手くボールが手に付かなくて、とにかくバスケ向きの体じゃないってことだけは誰の目にも明らかだった。一部の性格の悪い先輩からは「チビっ子」と呼ばれて小馬鹿にされた。
それでも顧問の先生は「お前にはきっとお前の武器が見つかるはずだから、腐らずに続けろ」と言ってくれたし、部長からも「背が低い相手って、結構やりづらいんだぜ」と言われた。でも、実際には僕の身長ではゴールは高くて遠く、180cm近い先輩にガードをされると、高さと圧力に気圧されて何も出来なかった。次第に心は折れていき、顧問や部長の言葉も慰めにしか聞こえなくなった。
ただでさえ体のハンデがあった僕が気持ちで負けてしまえば、何も上手く行くわけはなく、元々根拠らしい根拠の無かった自信は、時を追うごとに損なわれ、そして消え去っていった。
両親にはそのことは言わなかった。言っても仕方の無いことなのはわかっていたし、悲しい顔を見たいわけもない。だけど、母には僕の元気が無くなっていっているのはバレていて、父にも相談していたようだ。それが身長の悩みだとまでは知らずに。
そして中2の夏、父から当たり前のように「今年も行くぞ」と言われた僕は、反射的に「いつまでもガキじゃないんだから、あんなとこ恥ずかしくて家族で行ってられるかよ」と吐き捨てた。自分の身長の低さを最も感じさせる場所だから、今の僕には行ける訳がない。口から発した言葉は自分でも信じられなかったが、その時の複雑な精神状態もあって謝ることも出来ず、逆に「ごめんな、お前の気持ちをわかってやれなくて」と父に謝られ、余計に何も言えなくなった。そうして僕はふさぎ込み、心を閉ざして行った。
学校は休みがちになり、部活も辞めた。しばらくは友人が家まで来てくれたり、部活の顧問からも何回か連絡があったようだが、その内に諦めたようだった。担任が自宅まで届けてくれた課題やテストを提出することで出席扱いにしてくれて、なんとか中学校を卒業することは出来た。
高校は通信制を選んだ。母が調べてくれて、バスケ部のある学校にした。今思えばバスケにこだわる必要なんて無かったはずだが、僕にとってそれは自然な選択だった。
定期的に登校日がある以外は、郵送やPCを使って自宅で学習し、単位を取得する。たまの登校日も僕を知っている同級生はいなかったから、気持ちは楽だった。学校として語学に力を入れているのも、英語を学びたいと思っていた僕には良かった。だけど、バスケ部には入らなかった。いや、入れなかった。高校に入る頃には160cmは超えていたが、それでも小さい方であることに変わりは無い。心に負った古傷は、僕をバスケから遠ざけた。
高校2年になり、両親の許しを得て半年間アメリカへ留学することになった。中学時代より前向きに行動するようになった僕を見ていた父は、「お前の本当にやりたいことをやれよ。それが何であれ、俺は全力で応援するからさ」そう言って送り出してくれた。
留学の目的はあくまでネイティブの英語を学ぶ為。でも、遠く離れたその場所で、僕は運命的な出会いに恵まれたのだった。
ある日のこと、留学先の大学で出会ったアメリカ人のクラスメイトに誘われて、渋々バスケに参加した。3 on 3で、順にプレーヤーが入れ替わる形式だ。気が乗らない僕は、全力でプレーしようとはしなかった。でも、そのコートの中に、僕と同じ160cmそこそこの身長なのに、180cmを優に超えるクラスメイトを翻弄している奴がいたのだ。驚き、目を奪われた。大きな相手に当たり負けしない体幹の強さ、身長の低さを逆に活かしたプレースタイル。黒人の少年、名前はアルと言った。
アルのプレーを見た僕は、自分の努力不足を身長のだけのせいにして、親を傷付け、現実から逃げ回っていることに気付かされた。本当はわかっていたのに受け止められなかった事実に、直面せざるを得なかった。
僕はアルに話掛け、まだ不慣れな英語で「僕にバスケを教えてほしい」と伝えた。アルは日時と場所を指定して、「ここに来い」と言った。
学校が休みの週末、アルが指定した場所に行くと、そこは体育館だった。アルは僕を見つけるなり「今日は試合があるから観てってよ」と言って会場内に連れて行った。そのまま連れられてロッカールームに行くと、そこには2m前後はあろうかという選手たちが何人もいた。僕はただただ圧倒されたが、アルが僕を紹介すると彼らは順番に握手を求めて来た。リーダー格の男は「今日からお前は仲間だ」と言った。僕はほとんどパニック状態だったけど、とりあえず「yes!」とだけ返した。
手持ちのジャージに着替え、練習に参加させてもらった。と言うよりは、参加させられた。バスケ部を辞めてからも、自宅近くの公園で1人練習をすることはあったがそんなお遊びは意味を成さず、あまりのレベルの違いに全くついて行くことが出来なかった。その後の彼らの試合を観て、自分でも驚いたことに「あの中に混ざりたい。一緒にプレーをしたい」そんな気持ちになっていた。あれだけバスケを避けて来たはずなのに。その感情が何処から芽生えた物なのかは、自分でもわからなかった。
内心戸惑っている僕のことなどお構いなしに、毎日放課後にはアルが来て、腕を引かれ、練習に参加するようになった。一緒に練習するだけでは足りないから、時間があれば自主トレにも励んだ。アルは小さいなりにどうすれば良いか、動き方を教えてくれたりDVDを貸してくれた。その映像には僕より背の低い選手がNBAのコートで活躍する姿が映し出されていて、夢中になって何回も繰り返し見続けた。そうしている内に練習にもついて行けるようになり、英語の方もネイティブの会話に普通に参加出来るようになっていた。
半年間はあっという間だった。
帰りたくはないが、そういうわけにもいかなかった。父の言った「本当にやりたいこと」が見つかったからだ。
帰国前日、チームの仲間に別れの挨拶をした。本当に離れたくなかった。僕が泣きながら話をすると、皆同じように泣いてくれた。かけがえの無い仲間と、忘れられない時間を僕は得ることが出来た。
最後にアルに「なんで僕を参加させてくれたんだ」と聞いた。アルは「お前、悩んでただろ。悩んだまま立ち止まってたら、時間が勿体ないよ。俺も身長の事で悩んだ時があったけど、仲間に救われた。だから、お前も救ってやりたかったんだ」そう言って、僕をハグしてくれた。
僕が泣きながら「大男達の中で小人が2人抱き合っている」というと、チーム全員が笑った。長身の男達が無邪気に笑うその姿を見て、なんとなく昔見た向日葵畑を思い出した。
翌日、僕は帰国した。
帰国して始めにしたのは、両親への謝罪だった。空港で出迎えてくれた2人に「ごめんなさい」と真っ先に言った。2人はそれに対して何も言わずに顔を見合わせて頷いていた。「お前の本当にやりたいこと、見つかったんだよな」と父が言った。僕は「うん、見つかった」と答えた。
復学してすぐに、バスケ部に入部した。短期間だったが、ハイレベルな仲間に食らいつくように練習していたから、空白の期間は埋まっていた。それほど強くないチームだったこともあり、その年の内にレギュラーになった。ポジションはアルと同じポイントガード。攻守の要となる、最も重要な役割だ。チームメイトからアドバイスを求められることも増え、いつしかチームの中心になっていた。練習内容にもアメリカで学んだことを活かすようになるとチーム全体のレベルも少しずつ上がり、ほとんど負けて当たり前だった試合も、勝てることが増えるようになった。
大学入試を控えた高校3年の夏。僕は父に「牧場に行きたい」と伝えた。父は嬉しそうに、少しおどけて「やっと一緒に行ってくれるのか」と言った。
雲ひとつ無い快晴の空の下、僕たちは以前と同じように8時に家を出て、高速に乗り、牧場に向かった。思えば家族で出かけるのも、あの中1の時以来だった。3人ともいつも通りを装ってはいたが、それぞれが、それぞれの想いを抱いていたと思う。カーステレオからは、スピッツの『青い車』が流れていた。
「向日葵畑、行って良いかな」と僕が聞くと、「その為に来たんじゃない」と母が言った。母はこの日の為に、一眼レフを新調していた。
しばらくぶりの向日葵畑は相変わらず壮観で、そして雄大だった。太陽の陽射しを受けて、その姿は神々しくも思えた。僕の身長もやっと165cmまで伸びたけれど「まだまだ向日葵には敵わないな」と呟いて、今年もまたたくさんの向日葵に見下ろされながら、一緒に写真に収まった。
完