第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (十一)
<全十三話> <一> <二> <三> <四> <五> <六> <七> <八> <九> <十> <十一> <十二> <十三>
<十一>
「大丈夫か、咲保。すまんな、油断した」
「いえ、大丈夫です」
鹿は倒れながらも、必死で立ちあがろうともがいた。轟々と強風が吹き荒ぶような威嚇の声は、聞くだけで胸を切り裂き、目は爛々と燃えるようで、見るだけで憎しみに囚われそうだ。
(可哀想……)
何があったかはわからないが、さぞや無念だったのだろう。肉塊と成り果てても人に向けられる怒りは治らず、鹿の魂自体をも鞭打ち、蝕んでいるようだ。
桐眞が駆け寄ると、再び持ち替えた剣で、まるで居合い抜きのように左右の鹿の角を続け様に切り払った。鹿の角は地面に落ちると、塵となって崩れ、宙に消えた。
「そこまでっ!」
突然、凛とした声が響き渡った。声が聞こえたのだろう、とどめをさそうと首に槍を刺そうとしていた梟帥の手を、寸前で止めさせた。槍の穂先は鹿の首の毛皮を掠め、地面に突き立てられた。
「暁葉」
「ソレは、元は西の森の主であったモノ。そのまま討てば、長く残る祟りモノとなりましょう。さすれば、たとえその後に祀り上げたところで、この辺り一帯に、少なくとも数年の間は障りが出ましょうぞ」
障り――つまり、この辺りの田畑の収穫量が目に見えて減る可能性もあるということだ。それは困る。迷惑この上ない。
襟の抜き加減も婀娜っぽく、片身替りの着物の裾を翻しながら、暁葉は片側に流した長い髪を払った。
「まったく情けない。その立派な目は何を見て、耳はなに聞いてんのやら。臆病風に吹かれて見極めもできず、他人に頼りきりで。そんな風だから、猫は役に立たないなんて、誹りを受けるんだよ。猫神が聞いて呆れる」
浜路とすれ違いざま、そんな険のある言葉も投げかける。ううっ、と浜路が呻き声をあげたが、暁葉は振り返ることもしなかった。そして、歩みを止めることないままに、咲保の倍はありそうな大きな白ギツネに変わると、構えた姿勢のまま鹿のそばにいた桐眞と梟帥を尾で追払い、胴の上に覆い被さった。身動きを取れなくさせるためか、守るためなのか。おそらく、その両方だろう。鹿を労わるように、出来たばかりの傷も舐めてやっている。
その様子を見ながら、父が言った。
「……神上げしかないな」
「そうどすな。そうしまひょ。瑞波、折り紙で鹿折れますか?」
母が答えた。まだ、少しは苦しいが、身体がだいぶ楽になっていることにも気づいた。
「折れまぁす」
「せやったら、この紙で折ってくれませんやろか。出来るだけ上手に折りますのやで。アレの仮の依代にしますしな。磐雄は神棚にある笛と鈴、急いで持ってきてんか」
「はい」
「まるお!」
「こちらに」
影を伝い、まるおが一瞬で、母の元へやってきた。
「今から神上げしますし、場を清めて前準備をお願いできますやろか」
「畏まりました」
「咲保は、舞の奉納を頼みます。ああ、着替えんでもえぇですわ。そのままの格好でかましません」
突然の指名にびっくりする。まあ、と声をあげたのは、茉莉花だ。
「あら、咲保さんの神楽舞、私も拝見したいわ」
「そんな……暫く練習もしていないので、自信ないです。瑞波の方が上手にできるかと」
恐る恐る遠回しに断ってみたが、母に駄目だとぴしゃりと言われる。
「滅多にない機会やからこそ、ですわ。気持ちさえあれば、多少、下手でもかましません。曲は何がええかな? おめでたいのがええ思いますけれど」
問われて、父が、ううん、と考える。
「あまり長ないのがええな。『千歳』はどうや」
「ああ、ええどすな。せや、桐眞! そっちはえぇから、こっちおいで! 梟帥くんも!」
母が声を張り上げて呼べば、暁葉に追い払われても近くに待機していた兄たちが、渋々といった様子でやってきた。身につけていた着物は泥だらけで、あちこち擦り傷もできている。入れ替わりに、父は支度で離れていった。
「何ですか」
「あんた、祝歌で千歳は覚えてはりますか?」
「まあ、一応」
「なら、あんた、唄をお願いしますな。咲保が舞いますしな」
「は……?」
「お祖父さんに仕込まれましたんやろ。おさらいどす」
「なんで、神楽?」
「神上げだってー」
兄に答えたのは、母の傍らで折り紙を折っていた瑞波だった。
「瑞波、出来たんは、お父さまに差し上げてな」
「はぁーい」
「神上げですか?」
「略式でも、一通りやった方がええ思いましてな」
「母さま、持ってきました」
磐雄も戻ってきた。
「磐雄、神楽奉納で千歳しますし、あんたは笛をお願いしますな」
「え……? 千歳? 千歳ってどんなだっけ……?」
磐雄が狼狽えている内、まるおの発した声があたりに響いた。
「祓ぁいませぃー!」
「祓ぁいませぃー!」
姉さんかぶりをしたまるおが、箒の穂を天に向けて中央で仁王立ちし、声を張り上げた。すると何処からか、複数の高い子どものような声での復唱があった。
「清ぉめませぃー!」
「清ぉめませぃー!」
「祓いませい。清めませい、祓いませい、清めませい……」
そこからのまるおは、まるで箒で剣舞をするかのように合唱を背景に、箒を振り回し、回転したり飛び跳ねたりしながら、忙しなく動き回った。
「何だこれ、初めて見た。すごいな」
傍にやってきた梟帥が言った。少し身構えるが、今日は気に当てられることはなかった。
「私も初めてです」
「咲保さんもか」
「えぇ……」
怪我は大丈夫なのか、と聞くより先に浜路が言った。
「モノの間に伝わる清めの儀式です。モノの種によって、節や足運びなどは変わりますが」
浜路の腕の中に、いつの間にか保護をしてくれたのだろうみぃが抱えられていた。みぃは、あの荒ぶりようが嘘だったかのように、大人しく抱かれている。興味を隠そうともせず、梟帥が目を輝かせた。
「足運びとなると、禹歩に近いもんかな? 珍しいもんなんですか」
「人前でというのは珍しいと思います。特にここまでのものは、モノの間でも滅多に見ません。きっと、まるおさんにも、何かしら思うところがあるのでしょう」
生まれた時からずっと傍にいた筈なのに、まるおについて、まだ知らない面があるのだな、と咲保はしみじみ思う。
「祓ぁいーたまーへー、清ぉめーたまーへー」
梟帥は、へぇ、などと、しきりに感心の声をあげては、浜路に質問を繰り返していた。まるおが動きを止め、再び、声を張り上げた。
「木栖家氏神さまー大山津見神ーさまー御前にてー、神ー上がーりーにござーそーろー」
「神ーあがーりー、神ーあがーりー」
すると、何処にいたのか、白の大黒頭巾を被った子だぬき達がわらわらと出てきて、紙垂のついたしめ縄を張り、笹竹を四方に立てた。
「祓ぁいーたまーへー、清ぉめーたまーへー」
「祓ぁいーたまーへー、清ぉめーたまーへー」
「神ながら守りたまぁいー、幸えーたまーへー」
「守りたまーいー、幸えーたまーへー」
吐普加美依身多女、神ーあがーりー、神ーあがーりー、やれ、めでたきかなー、めでたきかなー。
「このー佳き日にーめーでーたーやーなー」
まるおと子だぬき達が静々とその場を離れ、どうやら、まるおの仕事はこれで終わりらしい。
「すごいな。これだけで、もうこの辺の殆どを清めたも同然じゃないのか?」
「ええ、本当に。素晴らしいですわ。一気に息がしやすくなりましたもの」
息苦しかったのは、咲保だけではなかったようだ。熾盛家兄妹の会話を横に見ていると、暁葉に動きがあった。鹿の上から退くと、鼻先で促すように軽く押した。立て、と言っているみたいだ。だが、脚を悪くしたのだろう鹿は、なかなか立てない様子だった。生まれたての子鹿のように何度も前脚を掻いて、やっと立ち上がることが出来た。そして、よろよろとしながら、笹竹に囲まれた場に脚を踏み入れた。中央まで来ると立ち止まり、限界だったのだろう脚を不器用に折り曲げて、うずくまった。暁葉は、その様子を場の外でじっと見守っている。
その間、場の前では狩衣に着替えた父と母がそれぞれ三方を運び、用意をしていた。二つの三方には、それぞれ玉串と咲保が母に渡した栗蒸し羊羹が載っていた。急遽、神饌にしたらしい。鹿が対象だからだろうか、普通、壇を作るものだが、それぞれ母が敷いた白い布の上に置かれた。両脇に榊が飾られ、最後に、瓶と盃の載った三方が真ん中に置かれる。そして、一番前の正面に、瑞波の折った、鹿の折り紙が置かれた。
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の……」
父が重々しくも祓詞を読み上げはじめる。父の声を聞いているだけで厳粛な気持ちになり、頭が自然と垂れる。身体の奥に残っていた昂ぶりが、徐々に冷めて行くのを感じる。
神事に関する教えのその殆どが口伝だ。秘事とされ、表に出さないのが原則だ。祝詞の中でも祓詞などは一般的で、たまに参拝者のお守りとして、紙に書いて渡すこともあるが、普通に読んだところで祓えるかと言えば、何の効果もないどころか、下手をすれば、長期にわたって障りが出かねない。祝詞はその全てが決められた抑揚で、内容に心を伴わせ、心身ともに健康で清い状態である、という大前提のもとに詠むものだ。言うのは簡単だが、すぐに出来るものではない。だが、咲保の父は、今まさにそれを行なっているのだろう。その証拠に、鹿の様子が変わり始めた。ひとつ、父に叩頭するように低くすると、次に、天を見上げ、立ち上がった。先ほどのような弱々しさはない。身体についた傷も、すっかり癒えて、堂々たる姿だ。ただ、桐眞の折ったツノだけは、戻っていなかった。
立ち上がった鹿は、首を低くして、まず栗蒸し羊羹に口をつけた。ひと竿を一飲みだ。次に盃に注いだ御神酒を舐めるように飲むと、満足したように姿を消した。かさり、と折り紙の鹿が微かに動いた。
ぱぁん!
唐突に柏手を打ったのは、人の姿に戻った暁葉だった。
「ありがとうございます。あとは、我らが引き受けましょう」
「しかし、まだ天に還す儀式が……」
思いがけずあった横やりに、父も戸惑っていた。
「必用ござんせん。充分に清められた今、よほどのことがない限りは、祟ることもござんせんでしょう」
「では、どうすると」
「この子は、我らが身内として迎え入れます。慈しみ、育てましょう。これがどうするかはわかりませんが、間違いなく、この家の良き加護を与えるモノになりましょう」
「高天原には還さず、モノになさると?」
「もとよりこれは地にあって、駆けることを幸いとする者。いずれは上がるにしても、天にあっては序列がどうの、地のモノはどうの、と我ら同様、さぞかし居心地が悪かろうと存じますよ。それをわかって、無理に還す必要もないでござんしょ」
浜路が進み出て、暁葉を後押しした。
「ご当主さまには、誠に申し訳ないことと存じますが、この地の一角をアレの仮宿としてお貸し願えないでしょうか。その代わり、アレがいる間は、地荒神のひと柱として、ご家族の皆さまに加護を与えるよう教えましょう。この御恩に報いて、私たち猫の一族も、いっそうの助力を惜しまぬことをお約束いたします」
「地荒神ですか。守護が増えるのはありがたいことだが……まるお、元よりそのつもりやったな」
咎める声で振り返った父の表情は厳しいものだったが、目の端に愉悦の光が見え隠れしていることに、咲保も気づいた。
「さて、なんのことでございましょう」
答えるまるおは、澄まし顔だ。
「『神上げ』やのおて『神あがり』に変えて言上していたやろうが。言霊まで使いよってからに……まったく、おまえたちモノときたら、油断も隙もない」
「よろしいやおへんの」
笑いを噛み殺す声で、母が言った。
「修行代りにせいぜいお役に立ってもらいまひょ。咲保!」
「はい」
「悪させんよう、あんたがよお見張っといてな」
「……はい」
「まあ、そう言うことで、皆様、よろしいか」
諦めたように問う父に、集まったモノたちは一様に頷いた。
「ほなら、国津神流に、四拍手で新しい柱をお迎えしましょか」
パン、パン、パン、パン!
一斉に、柏手が鳴らされた。