第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (六)
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<六>
水に浸かった栗を笊にあけ、大鍋に移し変える。新しい水と、色付けのためのクチナシの実を数個、割り入れて火にかけた。最初は強火で沸騰するまで待ち時間だ。竃の前に立っていると、また厨房の戸が開いた。
「賑やかだと思ったら、こんなところでみんな集まって、どうしたんですか。お父さま、おかえりなさい」
「ただいま。桐眞、大学はどうや。勉強は順調なんか」
「まあ、ぼちぼちです。さすがにあちこちから人が集まるだけあって、優秀なやつが多くて刺激になります」
「結構なことや。学ぶだけやのぉて、人ともよく交じわっときなさい。学生時代が、一番、一生もんの付き合いのできる友人が出来る時やしな」
「みぃがいない……あ、いた! みぃ!」
もう寝る時間だと言うのに、なぜか厨房に家族が全員、集まってきてしまった。母も呆れ顔だ。
「瑞波まで。もう寝る時間やろ。どないしましてん」
「みぃがいないから探してたの。父さまお帰りなさい。わあ、姉さま栗作ってるの? 甘いの、ひとつ味見させて、味見! お願い!」
「たった今、下茹で始めたところだから、食べられるようになるまで、まだ時間がかかるわ。明日のおやつにするから、それまで待ってね」
「えぇー、今、食べたい」
「そうなのか……」
瑞波だけでなく、桐眞まであからさまに残念そうな顔をする。捨てられた犬のような雰囲気はやめて欲しい。
「お嬢さま」
まるおの呼ぶ声に、妙な圧力を感じた。これを断れば、百年は祟られそうだ――咲保は、深々とため息を吐いた。
「まださして時間が経ってないから、味がなじみ切ってないと思うけれど……」
「あるのか?」
「あるの⁉︎」
「あるんだ」
「あら、ほな、お茶入れまひょか」
「渋めにな。さすが、咲保や。よぉわかってる」
「一個だけよ。じゃないと、明日の分がないから」
いそいそと湯呑みを出してくる母を眺めながら、敵わないなと思った。それとは別に、やはり、こうなったか、と思わなくもない。咲保は、夕方、こっそりと作り、棚に隠してあった分を取り出した。小壺から人数分を一枚皿に取り分けて出せば、どうぞ、と言う前から伸びてきた手に、あっという間に攫われてしまった。
「ああ、これこれ。渋茶とよぉ合う」
「姉さま、美味しい!」
「みぃ、おまえはダメだぞ」
「ほんま咲保が作るんは美味しいなあ。甘すぎんと丁度よろしいですわ」
「……もうひとつ……」
「食べ過ぎないでね……」
注意するのも、無駄なような気もする。それに、家族が喜んで食べている姿を見ると、まあいいか、という気持ちになってしまうのが不思議だ。寝る前に甘いものを食べるのは、よくないことだとわかっていても、だ。
「あ、みぃがにげたっ!」
「はい、これでおしまい。残りは明日な」
母が、壺の蓋を閉めた。
「磐雄も瑞波ももう寝なさい。桐眞も夜更かしはあかんえ。口を濯ぐんの忘れんようにな」
「はあーい。おやすみなさい。あー、美味しかった!」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「さて、我々も寝るか」
「お風呂はどないしはります? 明日は皇の神嘗祭やし、朝も早うおますやろ」
「そうでもない。式自体は十時からやから、八時過ぎについておれば間に合う」
「なら、いつもん通りでかましませんな」
「ああ。風呂は残り湯でえぇで」
「なら、寝る支度だけしますわ」
「頼む。それと、明日の晩は輝陽で一泊するし、帰るんは土曜の昼過ぎになる」
「あぁ、亥の子餅の下賜どすか。皇もお忙しゅうございますな」
「年中行事を蔑ろにするわけにはいかへんからな。帝の方は廃止になされたから、こっちは朝早ぉから参内せんでえぇからありがたい」
「けど、新嘗祭はしはるんでしょう」
「それだけは、流石にやめるわけにはいかんしな。公には、このまま毎年十一月の二十三日で固定や。けど、皇は旧暦のまんまで行うし、そっちはそっちで別で行くことになるな」
「霜月の二度目の卯の日ですか……また、日付を調べておかな。帝の方の神嘗祭もいつの間にか時期が変わってしもたし、相嘗祭もあるし。あっちやこっちや、ほんま、ごっちゃになって嫌になります。なんでこんな面倒くさいことになったんやろ。勘弁して欲しいですわ」
「今代の皇はお優しい方だから、ほっとけおっしゃっているけどな。けど、予算の関係で、帝はこれからも最低限を残して行事を減らしていくだろうし、皇の方は、順次、慣例通りに戻していくだろうな」
「けど、新嘗祭はやめるわけにあかんでしょう。そっちは新暦でなさるんやろ」
「帝はな。けど、皇は旧暦のまんまで行うし、そっちはそっちで別で行くことになるな」
「そう簡単にいきますやろか……ほなら、咲保、あと頼みましたえ。火の始末だけはきちんとしてな」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
人がいなくなると、厨房から賑やかさが一気に消えて、しん、と静まりかえる。
「片付けはわたしがしますので、お嬢様は火を見ていてください」
「ありがとう、まるお。悪いわね」
小壺を覗くと、半分ほどに減っていた。一つと言いながら、父や兄など三つほど食べていたが、想定内の範囲だ。やれやれ、と咲保は壺を棚の奥にしまった。
準備期間の最終日、その日は朝から雨になった。冷たくなった手を擦り合わせて、咲保は厨房の軒下から灰色の空を眺めた。今日は一日、降りそうだ。この雨で、また一段と冷え込むだろう。
(減ってる……)
小壺を覗けば、昨夜、最後に見た時と比べて、明らかに減っている。だが、今日、煮崩れた分を足せば、おやつ分ぐらいはなんとかなるだろう――これ以上、減らなければ、だが。ともあれ、色々あったが、今のところは順調だ。
午前は、綿入れなど冬のものを出し、片付けをして過ごした。午後はからは、小豆餡の仕込みと、下茹でした栗の甘露煮を作る。
悪天候にも関わらず、磐雄は学校から帰るなり、まるおの眷属が化けた奉公人を連れて出かけて行った。約束通り、角火鉢を買うためだ。望みが叶ってよほど嬉しかったのだろう、見送った磐雄の足取りは跳ねるようで、帰った時の泥の跳ね返り状態が恐ろしかった。雨の日の洗濯など、咲保はごめんである。
咲保は、小豆の煮こぼしを二回する。一回でも充分、渋みは取れると思うのだが、念の為、二回行っている。一回目を軽く、二回目は時間をかけて。小豆と水の入った大鍋は重く、ひっくり返すのも大変だ。火傷をしないよう、注意しながらの作業だ。二回目で柔らかくなった豆を笊に裏返して、大雑把に濾す。濾して冷ましたものを、今度は上澄液を捨てた上で、晒を通して再び濾す。硬く絞ったそれをまずは薄く伸ばした水飴の入った鍋で練り、味をみて砂糖で微調整しながら、精魂込めて、練って、練って、練りまくる。そうして、やっと、こし餡の完成だ。粒あんだともっと簡単なのだが、亥の子餅は大角豆が入るので、それだと食感が悪い。そのため、手間をかけてこし餡を作るのが、木栖家流だ。
(久しぶりだからか、疲れるわ……)
食べるのは一瞬だが、作るのは、思いの外、重労働だ。和菓子職人など男性ばかりなのは、そのせいだろうと咲保も思う。
(さて、もうひと踏ん張り)
次は、栗の甘露煮作り。とはいえ、こちらもあとは水と甘みを加えて煮るだけだから、簡単だ。
(大角豆は手間がかからないから明日の朝でいいし、例年通り、胡麻を炒るのも皮作りと一緒だし、柿を切るのも、あした手伝いに来てくださる方にお任せでいいわ)
亥の子餅を食べるのは夜なので、急ぐ必要はない。機嫌よく料理を再開した。甘い液で栗をことことと煮ていると、何事だろうか。こちらに向かって、ばたばたと足音高く、廊下を走る音が近づいてきた。
「咲保! 咲保っ、咲保っ! 助けて、さくほっ!」
「知流耶姉さま……?」
思いがけず現れたのは、姉の知流耶だ。顔を赤くし、息急き切っている。
「これっ! 知流耶っ! 急に来て挨拶もせんと、なんなん、あんたっ!」
母も怒鳴りながら追いかけてきた。しかし、それも意に介せず、知流耶は咲保に取り縋った。ドン、と身体にも芯にも強い衝撃がきた。
「咲保、助けて!」
「助けるって……何を? ねぇさま、少し抑えて……」
知流耶は、完全に自制を失っているようだった。咲保の心臓が、ばくばくと音を立てて、掴まれたように痛い。足元も覚束なくなるが、それよりも先に知流耶に両肩を掴まれて揺さぶられた。
「栗、栗が……」
「く、栗?」
「失敗しちゃったのぉおっ!」
知流耶は叫ぶと、わっ、と泣き伏した。眩暈で倒れそうになった。