この頃、誰にも手を振ってないし。誰かの背中も見送ってないし。
たどり着きたいのに、たどり着けない場所。
ずっとそこに行きたかったはずなのに、たどり着けないことで、まるで
存在していなかったかのように、まぼろしの域になる。
耳に当ててる携帯からは、鼻濁音を効かせたやさしそうな女の人の声で、
その場所までの道のりを教えてもらった。
だからそこは絶対にあるはず場所なのに。
何度言われた場所を通ってみても、はじめから存在していなかったかの
ように、存在している場所のようだった。
まるで、パラレルワールドのように。
それから時間が経っても、なんだか次元を超えたエリアとなって、わたしの中では、記憶されていた。
リアルでは、倉庫の中にあるギャラリーだった。
「左眼ノ恋」というタイトルの写真展。
その頃、右眼を失明した荒木経惟さんこと、アラーキー!の展覧会だった。
エルスケンの写真集にちなんだタイトル名らしく、
左岸の岸を眼に変えているところが、アラーキーらしくって、せつなくて
いいなって思う。
写真集「センチメンタルな旅、冬の旅」を教えてくれたのは、昔おなじ
マンションで暮らしていた栞さん(仮名)だった。
彼女と一緒に、フローリングにぺたんと座って、彼の写真集のページをめくっては、あれやこれやと心酔しきって夜更けまで話し込んでいた日々が想い起こされる。
ひとつの眼を失っても、撮り続けるアラーキーさん。
その作品を見えなくなった右眼が捉えていたであろう、右半分を黒く塗りつぶしプリントしたらしい。
見えない部分は、もともとなかった場所ではないし。
まぎれもなく存在している場所なのに。
黒くて深い闇がそこを占めることで、見ているものの想像や自由さを刺激する。
その時、その場所にちゃんとたどり着いていたら、たぶんそういうことを思ったのかもしれない、わからないけれど。
「エアー写真展」。
そう仮に名付けてみたらなお一層、アラーキーさんの「左眼ノ恋」をあの日に戻って探したくなっていた。
奇しくもたどりつけないことと、失った眼が見ていたであろう景色が清澄の街のどこかで、しんくろしているような。
そんな写真をひとりよがりに求めている気分になっていた。
それから何年か経って。
荒木経惟さんが亡くなった写真家の東松照明さんとの思い出を語る記事の中でみつけた言葉がある。
東松さんが、個展会場を去る時どんなに忙しい時でも、
いつまでも手を振ってくれていたと、追慕している荒木さんの言葉にうちのめされた。
アラーキーは、言った。
<手を振るという動きの中には、「こんにちは」と「さよなら」の両方が入ってるからなぁ>
もうなんなんだ!
その言葉を聞いた時、すこししゃがみたくなってしまった。
そして同時に、
わたしって誰かに最近、手を振ったかな?って思った。
母親だったら子供を見送るために、いってらっしゃいをするだろう。
思春期なんかは、たぶん振り返らなくなるだろうけど。
その背中を通りの角からみえなくまるまで、たぶん見送るだろう。
好きな人と駅で別れるときも、喧嘩していない時以外は見送っていたような気がする。
振り向くのか振り向かないのか、ちょっとした賭けを自分としながら。
今は、母とふたりで暮らしていて。
母がひとりで出かけることはほとんどもうないので、おのずとふたりで一緒にでかけることになる。
だから母に手を振ることはないし。
仕事関係の人と駅であいさつするときも、手を振ったりはしないなって。
誰かの背中に向かって手を振るってこと、もうしばらくしていないのかもって思ったら、ちょっとぽっかりとした。
あのアラーキーの言葉をもういちどなぞる。
あんなに何気なかった、手を振るしぐさってあの中に、
こんにちはとさよならが入り混じっていたのかと。
それは、まぎれもないほんとうに貫かれたみたいで。
胸の高鳴りがまるで幻聴のように聞こえていた。
そして、今わたしは。
さよならはいやだけど、誰かとまた会おうねって約束をして、駅で別れて
思いっきり手を振りたくなっていることに気づいた。
秋の夜のしじまのなかに取り囲まれている気分だった。
今日も長いひとりごとにお付き合いいただきありがとうございました!
は、
♬official髭男dismさんの「ゼロのままでいられたら」です♬
では、どうぞお聞きくださいませ。
失った まなこがみてる 路地裏の角
まぼろしは 世界ののまなこを 巡ったままで