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誰かと、出会うということ。

点と点はいつか線になるっていう言葉は馴染みすぎたぐらいのきらいがあるけれど。
時折、点は点にすぎないのだけど。線につながることもあって。
そう感じたくなる経験も数年に何度かは訪れてくれることがある。

一度出会って今は出会わなくなってしまった人は時々記憶の中の登場人物となって、お茶碗を洗っている水に触れている時やシャンプーしている時など、不意に現れては消えてゆく。

消えてゆくのだけど。
またいつか泡のように記憶が再生する。

10月のはじまり。 
不甲斐ない想いをしていた時のことだった。

ああ、不甲斐ないとか不埒だとか、こういう自分のことを言うのかもしれないみたいなことを思い知らされていた。

誰かの優しさに触れると、じぶんのぐうたらなところやろくでなしなところや生きていてもいいんだろうかみたいな気持ちに、ひたひたになる。

くずおれてしまう。

わたしはTwitterをはじめて2年程だけど。

ある日ふいに。
よくお見掛けするアイコンがわたしのポストにいいねをくださった。

一瞬デジャヴュなのかなって思った。

最近わたしはTwitterでも歌集を出版した時の名前を明らかにすることにした。

そのせいなのか。

その方がタイミングよくみつけてくださった。

よく見つけてくださって嬉しいという言葉を使うけれど。
ほんとうにみつけてもらえることがあるのだと、心底嬉しかった。

いくつもの拙いポストにいいねがついて。

うまく言えないけれど、懐かしさという健やかな想いがタイムラインに川のように乗って流れていくような気持になっていた。

せせらぎをみているだけで安心するように。

ふがいない自分をそっと脱いで、その瞬間に訪れてくださったいいねに救われていた。

いいねに救われる時もある。

そしてDMまで頂きあの頃の時間がそっくりそこに戻ったかのように、不思議な時間が訪れて先生の記憶を綴って頂いた。
感無量だった。

話せば長い。

むかし参加していた小説のコンテスト(携帯電話で1000文字で書く掌編小説コンテスト)の選考委員でいらっしゃったその方に賞を授けてもらった時のページをめくる。

もう今では到底書くことができない1000文字の掌編小説がそこにあった。

ああわたしはあの頃も毎月小説を書いてはそこへ送信していたのだと思い出す。

鬱でなにもできなかったのに、ベッドの隅に腰かけて。
短い掌編小説なら嬉々として指でタイピングしていたあの頃。  
物語の中に棲んでいる時はこころは平穏だった感覚が甦る。

そのページでわたしの「逆立ち」という小説と再会する。

「逆立ち」にことごとく失敗している主人公の女子中学生が、その体育の先生にひたすら憧れて恋をして永遠に失ってしまう物語だった。

その女の子は「世界はさかさまだと思うだけで、ちゃらにできそうなことへの希望」を感じていた。

当時わたしはこの言葉とずっと生きていきたいという評語を頂いた。

「中学生が感じたこの「希望」はじつはこの作者が文章を書き、作品を書くこと意味そのものに、通じているように思われる。書くことの危なっかしさ、書き続けることの切なさが、きゅっきゅっと(最後のシーン)床を鳴らす音に込められている。そこが良かった」と。

掌編小説「逆立ち」に頂いた評語。

この言葉と20年ぶりに再会してほんとうに胸が熱くなった。ありがたかった。

この言葉の中にわたしを受け止めてもらえる温かな眼差しがあった。

どうしてわたしが書いてる時の気持ちまでこんなに自分以上に染み透るようにわかるんだろうと、幸せな気持ちになった。

ずっと会っていない方なのに、いつからかずっと心のどこかに居てくれたような気がする方がいる。

「一度出会ったら、人は人を失わない」

『神様のボート』江國香織著

すぐにわたしは大好きな江國香織さんの言葉を僭越ながら思い出していた。

じぶんのなかの数少なくでもその人の記憶がある限りそれは遠く離れたとしてもいつでも自分の中に棲んでいる人なのだ。

拙い小説に頂いた、もったいない言葉。
そして人と出会うということの本質のようなものを体感していた。
一方では絶望を、そしてなぐさめられるように希望を感じる10月のはじまりだった。





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ゼロの紙 糸で綴る言葉のお店うわの空さんと始めました。
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