たとえ正しくなくても、愛おしい記憶。
記憶はときどきあやふやになったりしているのに思い出している最中はそれが正しい記憶だったと思っていることもある。
わたしの母は記憶にグラデーションを帯びて来たのが去年あたりだけれど。
今は食事の時以外はベッドの上で過ごしている。
彼女の寝ているベッドからは窓からの借景が見える。
お隣のお隣あたりの赤い屋根が見えるのだけど。
彼女にはその赤い屋根になにかしらのあらたな記憶があるみたいで。
いつも夕方あたりになると彼女のなかにだけあるエピソードを話し出す。
いつも、あの瓦の傾斜がねって言葉から始まる。
一冊の本の始まりのようにいつも同じだ。
あの傾斜がおかしくなるのをね、落ちそうになりながら一生懸命、高校生の息子さんが直しているのよ。
って続く。
そのお宅には息子さんもいらっしゃらないし。
屋根も瓦ではないスレート屋根なのだけど。
それでも母にはその景色が見えてるらしい。
母の言う高校生の息子さんは、ずっと小さい頃からお父さんの仕事である大工さんの見習いのようなことを必ず夏休みになるとやっていたと。
彼女の折り畳まれた記憶をほどくように話してくれる。
母のいろいろな記憶のエピソードはこれ以外にもあるのだけど。
わたしは母のその記憶のことを、正そうとは思わない。
いつしか、彼女のそれをあたらしい物語のように聞いているじぶんに気が付いた。
この話は、その息子さんがいつも屋根から転がり落ちそうになっても、なんとか耐えて元の位置まで這い上がり、それでお父さんに心配されたり叱られたりしながら、屋根は修理されていくという結びを迎える。
そして、その後親の仕事を継ぐとはどういうことかとか。
それがほんとうにやりたいことなら幸せかもねとか。
体育はぜったい得意だろうねとか、そんな話まで伸びてゆく。
そしてわたしが頷いたり、ちょっと問いかけたりしていると。
母も安心したかのように、すやすやと眠るのだけど。
母の記憶とつきあってると、まちがった記憶なんてないのかもしれないと思う。
わたしは夢想であるとかいまそこにない映像を想像してみるのが好きなせいか。
母の記憶はわたしにとっても安らぎだなって思うことがある。
介護ははじまってみたらわりとほんのりほんわかしていた。
ある日母がショートステイで施設にお世話になっている間。
わたしも母と同じベッドで眠ってみた。
眠り心地がよくていつのまにか眠っていた。
朝起きると出窓からは屋根と屋根のはざまにぽっかり浮かぶ雲に出会えた。
ああ、この景色を見ながら母は毎日なにかしら感じているんだなって思うとすこしじんとしていた。
同じ部屋に暮らしていても座る椅子の位置や眠るベッドの位置からでは、見ている風景はまるで違うのだと気づく。
その時わたしはひとりとひとり同士なんだなって思って。
ひとりであることのはるかな時間を思ったりした。
そして記憶はまさに時間なのだけど。
母の記憶はまるで物語なので。
いつかまたほかの物語を聞いてみたいとちょっと心待ちに
している。