ひとりと、ひとりのままで、生きてゆきたい。
ちいさな紙の束を束ねる。
はじっこをできるたけあわせて、
ばらばらにならないようにカキンとやる。
紙がすこし分厚いときのあのゆびにかかる
かすかな圧力のなかには、みえないぐらいの
罪悪感が潜んでいる気がする。
ゆめを束ねて、置き去りにすると、いつまでも
記憶の中に収納されて、なくなってくれないような。
待っているからすべてのものがやってくる訳じゃ
ないことを知りながら、
待つことをちゃんと忘れようとしているときに限って、
待っていることに支配されていることに気づいた
ときみたいに。
いま、あたまのなかにある絵が、ほんとうならいい
のになって思いながらも、それをさらさらと
せせらぎのなかに捨ててしまうことを想像して
ゆくとき、
あまのじゃくという声がして。
ふいに名前もしらないきれいな蛾が、磨りガラスの
外側で休んでいることを発見した。
♂か♀かわからないけれど休んでいるその蛾のまわりを、
くるくると白地にかすかにグレーの模様のおなじ種の
蛾がまわっている。
そっとしておく。
音をたてないように。
いないふりをしながら、はじめからいなかったものの
ようにふるまいながら。
ふるい雑誌のページを捲っていたら、日本最古かもしれ
ない明治半ばから末ぐらいのホッチキスの写真が
載っていた。
https://wis.max-ltd.co.jp/op/h_story8.pdf
U字型金属針(ステーブラー)が、ばらばらに散らばって
いて
<紐穴のついた針をパンチ部にセットし>、
<垂直に強く押し込んで>
紙をとじるものらしい。
この商品を紹介していた推薦者の方は、
「どんな物にも、始まりのものがある」という文章から
始まっていて、現在は博物館に勤めていらっしゃる。
その前は企業のエンジニアだったらしく、こういう物の
はじまりにとても興味をそそられると綴られていた。
束ねることが仕事だった道具のはじまりを思う。
ひとびとはその頃何を束ねていたのかな、と。
そのとき、たとえば紙をカキンとやるとき、どんな
音がしたんだろう、と。
その黒い塊のパーツを持つゴツゴツとした写真から
想像する。
時間が経って、玄関の磨りガラスをみてみたら、あの
ときの蛾はもういなかった。
はじめからいなかったかのように、いなかった。
わからないけれど、どこかへと向かって飛んでいった
らしく、いなかった。
よかったなって思いが湧いてくる。
ふたたび、カキンとやる。
なにもなかったところに傷がついたみたいで、微量の
罪のいしきがよぎる。
ものを束ねるときの、心地よさとは裏腹にきっと人には
束ねられたくないんだな、と。
さっき見たばかりの解き放たれたなにもない空の空間が
残像のように頭のなかでついたり消えたりしていた。