屋台のおじさんに、店番を彼とふたりで頼まれたときの話。
夏が終わって、秋も真ん中あたりになると
温かいものが欲しくなる。
今はほとんどいかないけれど。
昔、涼しくなると屋台のおでん屋さんで
少しおでんを食べてから、居酒屋さんに
移動するっていう、仕事帰りの夕食の
ルーティンがあった。
大阪のミナミと呼ばれるオフィス街の一角が
おじさんのおでんの屋台の定位置だった。
その時、付き合っている人に連れて行って
もらったのだけど。
屋台は初めてだったから、屋台デビューの時
とても緊張していたのを覚えている。
コートを着たまま長椅子に座って、新しい
お客さんがそこに訪れたら、少しずつそこに
座れるスペースをゆずり合う。
今みたいな、感染症の時代になったら考えられない
ぐらい、密だけど。
あの隣り合う温かさが今となると懐かしい。
そのおじさん、たぶん一度も人を叱ったり
怒ったりしたことはないんじゃなかろうかって
いう笑顔が、好きで。
頑固なところもないし、お客さんの話の邪魔を
しないようにそっとそこにいらっしゃる。
あのたたずまいがすきだった。
そこにどれぐらい通っただろう。
会社帰りに食事するときは、おじさんの
おでんの屋台から始まる。
端折ることは一度もなかった。
そのおでんの屋台はウェイティングバーの
ような感じ。
仕事がお互い混んでいて、なかなか訪れなかった
時もおじさんは、ほとんどどんぴしゃで
何週間ぶりだねって、正確に答えてくれた。
グーグルカレンダーなおじさん、わたしの
カレンダーになってほしいよっていうぐらい
正確だった。
コップ酒を初めて吞んだ時も、その呑み方を
おじさんが、やさしく教えてくれてわたしは
すっかりコップ酒好きになった。
コップ酒上手に飲みましょう大会があったなら、
入選ぐらいはしそうなぐらい、マスターしていたと
思う。
大根の染みかたをあれを何色と表現したら
いいだろう。
一般的にはあめ色っていうけど。
なんかそれでは足りないぐらいのいい感じの
染みかたをしていた。
おじさんのあの笑み。
あんなに人を受け入れてくれる笑みの
表情をしている人をわたし今までみたこと
がない。
そんな笑顔にたどりつくまでの時間と
おじさんのおでんの大根の色がどこか
重なって感じてしまう。
通いだして、どれぐらい経った頃だろう。
先客は帰ったのかそこに誰にもいなかった。
おじさんはいつもの微笑みウェルカムで
迎え入れてくれた。
コートのままいつものように座って、
注文をしようとしたらおじさんが、
とびきりの笑顔でわたしたちに何か言いたげな
雰囲気を醸し出していた。
お兄ちゃんたちまだおる?
っておじさんが聞いてくる。
ふつう、こんばんはってさっき来たばかりの
お客はまだおるに決まっているのだけど。
おじさんは返事を待っていた。
彼がどうかされましたか? って聞いたら。
「おっちゃんな、お客さんの煙草と自分のをな
買い忘れててん。すぐそこなんやけど、
おっちゃんちゃっちゃと行って帰ってくる
さかいに留守番してくれへんか?」って言った。
ええ?
お客さんが店主のいない屋台の留守番とか
していいのものかどうかわからないけど。
おじさんの片足はもう行きたがっていたので
彼がどうぞどうぞって促した。
そしたらおじさんが、すぐ戻るさかいに
好きなもん食べといてって雪駄の足音
たてながらその屋台を後にした。
好きなもん食べといてって、そんなん
食べられへんよなって言いながら。
私たち以外にお客さんもいなかったけど
狐につままれたみたいなその屋台の中で、
ふたりウケていた。
ウケていたのだけど、なんか緊張して、
わたしは彼に言わなかったけど寂しかった。
だって風景がいつもと違う。
目の前いにいるあのおじさんがいないだけで
なんか居心地わるい。
なんか足りない。
おじさんがそこに足りない。
こんなこともあるんやなって彼と話しながら、
もしここに彼が戻って来なかったら
どうしようとか。
今の仕事クビになったら、ふたりで
屋台を引こうかとか。
屋台ってどこにも好きなところにおける
わけやないんやでとか、どや顔で
諭されたりしながら笑いもってふたりで
彼の帰りを待っていた。
暫くして雪駄の音がして、おじさんが
わるいねっていいながら戻ってきた。
おでん減ってへんやんかぁって言って
おっちゃんの驕りなんやでって。
遠慮せんと、留守番代やから食べって
言ってくれた。
わたしたちのお皿に何がいい? って
好きなおでんを、よそってくれた。
次のお客さんが来るまでわたしたちは
ふしぎな空間にいた。
ちょっと欲を言うと、ずっと次のお客さんが
来ないで、おじさんが目の前にいるこの
満ち足りた感じをいつまでも味わって
いたかった。
そして、隣に彼がいること。
ずっと前は知らなかった彼が隣にいて
ともに仕事をしていること。
そしておじさん。
おじさんの屋台は馴染の店になったんだな。
わたしもそういう場所ができたことが
うれしかった。
あの屋台まだあるかな?
屋台を思い出す時、必ずおじさんの笑った顔が
そこにある。
そして、悔しいことがあった日はなぜか
大阪に帰りたいなぁって無性に思う。
故郷に錦を飾れてないけれど
お腹すいてんって帰りたくなる場所が
大阪なんだなって思うのだ。
そして大阪のネオンが映りこんだ
オレンジ色の河の色も思い出している。