
迷ったら、観覧車に乗って。
あらすじ
最果てのロカ岬を見に行ってくると告げた恋人の爽は、突然帰らぬ人になった。施設育ちの柊小夏と爽はいつも一緒だった。彼のいない季節を生きなければならなくなった小夏。今際の際で爽は謎の言葉を遺していた。「頑張ればメッセージを送るよ」と。宛てもなく彷徨っていた時マップにも載っていない風情の街「かまた」をみつける。小夏にはその街が「最果て」のように見えたのも決めてだった。バイト先<キャフェ ちぎれ雲>で出会ったのは消えてしまいたい小夏を放っておいてくれないこの街の人たちだった。そんなある日、使われてないはずの爽のLineから小夏に突然メッセージが入った。
あらすじ。
水を張ったボウルの中でブリのえらをゆすぐ爽の長い指が、時々もてあましてるようにみえた。
「ちっちゃい頃、泥に足つっこんだりするのっておもろかったな。魚さわってるとあの頃のこと思い出すねん。おれらの定番の遊びやったやん? ずっとしてられると思ってた。あの頃なんも知らへんかった頃の永遠、えいえーんってよかったよな」
爽が台所に立って魚料理の下準備をする時必ず嬉しそうに話す十八番はこれだった。
とくに魚をあしらうのは爽の担当みたいなところがあったから、まかせっきりにしていた。
目に飛び込んでくる血の色は、水で薄められて流し台の傾斜を伝って流れてゆく。キッチンペーパーで水気を吸い取ると、まな板の上に載せられる。
その後、ブリと大根で煮付けを作ってくれた。
料理人でもなかった爽だったけれど、台所で魚に触れてる時は幸せそうだったからわたしは眺めているのが好きだった。
爽とは施設で出会った。
「ハッピー園」と名づけられたそこは、クリスチャン系の学園の中にあって、生まれてからずっとそこで二十歳になるまで暮らしていた。
ふたりはそこのことは「はぴぞの」と呼んでいたけれど、いつしか園のことはふたりとも話さなくなっていた。
ふたりとも、親の顔を知らない。
知ろうとしたこともあったけどそれは遠い昔のことだ。
気がつくといつも視界のどこかには爽がいて、爽がいないことなんて考えたこともなかった。
彼がぬいぐるみとしか眠れないことも、左利きを直そうとして一時期言葉がうまく出てこなくて泣いていたことも、施設の先生を何度もママと呼んでお腹の辺りに甘えに行っていたことも、爽の記憶はぜんぶ好きだった。
ママなんていないのにあほやなって呟いた時、わたしはこの人の側にずっと居ようと思ったのだ。
守るとかじゃなくて、わたしが勝手にそばにいたいのだからそうさせてよね。
それはゆるぎないわたしの意思だった。
いわゆる「毒親」に会うこともなかったので、おれら案外幸せかもしれないなと、そんな話を夕暮れの屋上でしていたこともある。
でもいつもどこかでふたりは死に場所を探しているようなところもあって。幸せだねって言った後も、ここから手をつないで飛び降りたら気持ちいいのかな? 最悪なのかな? みたいにそんなことを呼吸するように話していた。
若気の至り。
っていうんだって。
若い時も若いのだということを思う存分味わったことがなかったふたりは、そんなことどうでもよかったし、よくわからなかった。
それからずいぶんと時間が経って、そろそろ30半ばになりそうな頃、わたしはあたらしい暮らしを強いられた。
この街をわたしが選んだのは、駅の終点がまるで最果てみたいな雰囲気を兼ね備えていたからだ。
「最果て」はその頃わたしにとってはバッドワードだったはずなのに。
新生活を始めようと思って、この駅に初めて降り立った時、ホームには夕陽まで差し込んでいた。
とてもおいしそうなブラッドオレンジの夕陽だった。
でもそれはいつか爽がキッチンで何かの魚をさばいていた時の血の色にも、似ていた。
その時わたしは思った、この駅に朝日なんてやって来なければいいのに。
ずっとあの夕陽だけが差し込んでていればいいのにって。
そんなじぶんの気持ちのなかのオワリのハジマリのようなハジマリのオワリみたいなところを受け入れてくれる、ここの雰囲気が気に入った。
そしてわたしはこの街「かまた」に住むことにした。
<最果ての地に行ってみたいねん、なんてね>ってある日爽が言った。
爽の行きたいは、いつでも行くっていう意味を孕んでいたから、なんてねっておしまいにつけてくれたのはわたしへの精一杯の気遣いだったのかもしれないと今頃になって思う。
世界で最も西の端に位置するロカ岬に爽が旅立っていったのもつい数日前のことのように思える。
爽がロカ岬を訪れたかったのは、たった一言をその目で確かめたかったから。
記念碑に記されている「ここに地果て、海始まる」というポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの言葉に触れたかったからだ。
わたしには海外についての興味がほとんどない、ドメスティックな人間だったから、一人旅の爽を成田で見送った。
あの言葉が刻まれたロカ岬を感じたかっただけ。
そんな爽の夢はいつも突拍子もない。
一枚の画像がある日送られてきた。
地の果てなのに、黄色やピンクの花が咲いていた。ひまわりにも似ている黄色い花も見えていた。
それはルドベキアやって、爽がLineを送ってきた。現地の人に教えてもらったらしい。別名タイガーアイって言うんやで、トラ目やで。どや!みたいなLineのメッセージだった。
正直、植物図鑑みたいなメッセージは望んでいなかった。
いつ帰ってくるのかだけ知りたかった。
それより、大事なことを話したかった。ふたりにとってだけ大事なことを。
断崖絶壁に建つ石碑は、てっぺんに真っ白い十字架が乗っていてその向こうには、赤い屋根の灯台が見えていた。
ひとりぼっちで建っているさびしいお墓に見えた。
「ぼっちのお墓」とわたしはLineをみながらそうメッセージを送った。
でもいつもみたいに既読スルーされた。
爽は前しか向いてないあほだから、既読だけしてレスポンスのない男なのだ。いっつも。
目の前に広がるのは大西洋。
あの前に立って鋭い岩壁に打ち付けられた白波を爽は何度見たんだろう。
爽からのLineは旅先からしょっちゅう送られてくる。
ただただわたしはいつ帰って来るのかだけが知りたかった。
ひとりが寂しいとかじゃなくて、ふたりで決めなければいけない案件がわたしを襲っていたからだった。
ロカ岬の最果てに降り立ったという人にだけ贈られる、名誉の証明書があるらしい。それは到達証明書というらしいのだけど。
その画像がわたしのlineに届いた。
到達証明書という文字で自撮りされた爽の画像は、嬉しそうなのに寂しそうで、そしてやるせない瞳をしていた。
セルフィーした後の目標が消えたであろう直後の爽の眼差しがわたしにはみえるようだった。
ロカ岬に建つレストランの入る建物の中で「ユーラシア大陸最西端到達証明書」を発行してくれるらしい。
5ユーロと10ユーロの2種類の証明書があったから、10ユーロに奮発したんやって興奮気味の爽のメッセージが今も残ってる。
それが爽の最後のLineだった。
早く帰ってきてねって、もふもふ達のお気に入りのスタンプを押しても既読がつかなかった。
爽が最果てに行ってからわたしは二度と彼に会えないようなそんな気持ちに駆られることがよくあった。
朝歯磨きをして鏡の自分を見た時や、中腰でシャンプーをしてる時、通勤列車のつり革の向こうに見える車窓をみている時もふとよぎる。
帰国予定を彼が伸ばし伸ばしにしたことも手伝って、妙な胸騒ぎを覚えていた。
職場の人にも彼氏さん帰ってこないの?って聞かれるたびにイラついた。
あの日予定通りに飛行機に乗っていたら。
ひどい乱気流に巻き込まれなければ。
空港に着いた途端に倒れてしまうこともなかったかもしれないとか。
喧嘩になってもいいから何度も、わたしがもっと早く帰ってきてと繰り返せばよかったとか、それこそ百万回以上は悔やんだ。
そしてそのたびに、わたしは「百万回生きた猫」の絵本のページをめくる。
施設でもふたりが気に入っていた絵本だったからだ。
自分のことが好きじゃないと立っていられなかった施設時代。
わたしは百万回生きて死んだあのいけすかない猫だったから、いつの日か自分ににとっての「しろねこ」を見つけたらいいのにと思っていた。
じぶんよりも好きな相手がいたら生きられる。
わたしにとってはそれが「爽」だった。
爽にとってのわたしが「しろねこ」だったのかはこわくて聞いていない。
そしてあの日「かまた」駅に差していた夕陽は今もわたしの胸の中にも差している。
駅に着いた時その足で商店街をのぞいた。
少し色あせた太陽を半円にしたようなカマボコ型のデザインのアーケードだった。
わたしはただひたすら歩き疲れてなにかを忘れたかった。
あてもなく、彷徨っていた時声がした。
潮の匂いと共に「コンニチハ、まっせ~」って聞こえてきた。
母語が日本語じゃない誰かが発しているのはわかった。
その声が、無条件に明るくて思わずわたしは声のするほうに引き寄せられていた。
もう一度、聞こえた。
爽はロカ岬にあの日たどり着き、そして帰らぬ人になり、それからしばらく経ってわたしは死に場所としてこの「かまた」に辿り着いていた。
その場所でとても心地よくその言葉がわたしの中に滑り込んでくる。
「魚つる」のコバッチで~すと若い漫才師みたいに挨拶までしてくれた。
コバッチさんは若い頃クロアチアから日本に来て25年以上になると言った。
彼の「コンニチハ、ませ~」の独特の挨拶が「こんにちは、いらっしゃいませ」の省略だと、わかったのは、それからずっと後になってからだった。
正しいとか、正しくないとか関係ない。
爽がここにいたら、きっとコバッチを気に入るだろうなと思った。
気があって、ふたりで飲みに行ったりしそうなぐらい彼は人を拒まない人懐っこい瞳をしていた。
はじめに魚屋さんをのぞいたことが、なにかの始まりだったかもしれないし、それは爽の導きだったかもしれない。
なかなか場に馴染めないわたしの闇の部分なんて、ここの市場で働く人のいきいきとしたその根っこの温かさに触れてると、ちょっとどうでもよくなってくる。
週に一度は、ここに通うようになってしばらく経った頃。
すごく近くにコバッチの顔があった。
眉毛の太さとふたえの幅と奥の方にある青茶色の眼が、どこかの深海で泳いでいるまだ発見されていない不思議な魚の魚眼のようにもみえた。
そしてその先にはロカ岬をまださまよっていると夢想したい爽を思わせた。
今日は好きな人の誕生日。だから魚料理をつくってみたかっただけなの。
そういうとコバッチはたくさんイカや鯵などをオマケをしてくれた。
それからしばらくして、コロナの頃コバッチは家族と共にクロアチアに帰っていったけど。
あの日見ず知らずの通りがかりのわたしにやさしくしてくれたことは、思い出すたびにあの夕陽と共に思い出させてくれる。
コンニチハ、ませ~がその店先から聞こえなくなってさびしい。
わたしは人には話せないけれど、爽が最後に話してくれた冗談みたいな約束を今もお守りみたいに、待っていた。
「俺がこの先、いなくなっても、なんかコナツにメッセージを送ってやるからな。めそめそすんな。頑張れば手紙とか送るから、ええな?」
「頑張れば手紙とか送るから」って意味がわからない。
文章がおかしい。
誰が頑張るのかわからない。
わたしなのか、爽なのか。
今際の際だったからきっと朦朧としているんだろうと思っていたけれど、
でもわたしは何処かで爽のその言葉を信じていた。
信じていたの5文字は嘘っぽいけど、じゃなくて、それを信じていないとわたしも爽の後を追いそうなぐらいに黄昏ていた。
バイト先<キャフェ ちぎれ雲>の2階の6畳一間がわたしの新しい住処だった。
店主の開さんのお母様が亡くなられたあと、その部屋が賃貸されていることをみつけてわたしはバイト先だけではなく住処もそこにみつけた。
台所にはちいさな円錐型の青いフォルムのカバーをかぶせた豆電球がついている。
そこの電気だけをつけてそこに立つ。
魚やイカの内臓を手探りで、ちぎれないように微妙な力加減でひっぱりだす。この練習を爽にさせられたとき、爽は腕を組んだままじっとわたしの手元を見てた。
「大胆にそっとやで」って、難しいミッションに四苦八苦しているわたしの手元をじっと見ていた。
大胆にそっとってなん? ってわたしが不貞腐れると、大胆にそっとはそのままの意味やってキッチンで喧嘩しかけた。
包丁持ってる時には喧嘩するんはやめにしようという、わたしたちのルールがあったので、辞めにした。
こうすんねんって、イカのはらわたを取り出そうとしているわたしの指の上から爽の指が重なってナビゲーションしてくれた時、輪郭は不確かだけど、あ、わたしは今爽とふたりなんだなって実感できた。
こうやろ?
って彼の大阪弁を真似しながらわたしはふたりでいることの力強さを、そしてわたしにとっての「しろねこ」に出会えたことの安堵も感じていた。
いまはひとりでそれをやってみる。
なんでやねん。
一人ごちる。
今日はやけにイカくさいやん。
なんでわたしは今、爽とおれへんねん。って、豆電球の下で泣き言を言う。
爽が魚をあしらってたときの感覚がその時ふいに指に甦ってきて、海のどこかで爽の手を探りあてたみたいな感じがした。
イカ大根をお皿によそってテーブルに置いた。
陰膳をした。
陰膳なんて人生でわたしすると思ってもいなかった。
爽、お誕生日おめでとう。死んでから何日とかは数えないからね。
ありがとう。とかって聞こえるはずもないなって思ってたけど、なぜかわたしは数秒待っていた。
偶然に窓の外で夜の鳥がおもしろい音階で鳴いた。小さい頃施設の人に読んでもらっていた爽の好きな絵本には、ナイチンゲールの鳴き声が登場する。
酔うと力説しながら真似してくれたその鳥の声が、今は爽の声のようにしか聞こえなかった。
<キャフェ ちぎれ雲>は、凪街から歩いて10分程のところにあった。
はじめてここを訪れようとして電話をかけた時、店長が言ったことばは今でも覚えてる。
「迷った?」
「はい」
「じゃあね。駅前のフェスタプラザのさ、観覧車に乗ってごらんよ、見えるから」
「はい?」
店長にからかわれているのかと思ったけれど、電話を切りかけた時、見えるんだよってうれしそうに言う。それが迷った時の唯一の脱出法らしく、わたしはわざわざデパートまで足を延ばした。
屋上に着いた。
観葉植物を置いてある小さなグリーンショップがあって、そこのオーナーさんがすてきな歳の重ね方をしているご婦人だった。
目が合ったので軽く会釈した。
会釈したのを合図に彼女が近づいてくるとちいさなラベンダーの束を差し出してくれた。
「これ、どうぞいい匂いでしょ。触れてるだけで幸せな気持ちになるわよ」
わたしにくれるという。
ここにわざわざ訪れてくれたんだもの。はじめましてのお近づきのしるしにどうぞ。
彼女のふくよかな手のひらからわたしのてのひらにラベンダーが渡された。
わたしがちょこんと頭をさげるとどういたしまして、と笑ってくれた。
「ここらへんの方じゃない?」
わたしは流れ流れてここに辿り着いたこと。
駅に西日が差して「最果て」みたいで素敵だったので気に入ったこと。
<キャフェちぎれ雲>に行きたいのだけれど店長さんにあれに乗りなさいと
教えられたことなどを、かいつまんで説明してみた。
あと社交がおそろしく下手なことも。
「最果てね、たしかにそういうところあるわね。わたしもここが終の棲家になっちゃうだろうからね、最果てそうよそういう街よね」
百合子さんはうまいこというわねって豪快に笑った。
あ、すみません。ずっとお住まいなのにってわたしは恥ずかしくなっていたら、ぜーんぜん、大丈夫大丈夫、だって気に入ってくれたんでしょここのこと。それだけで十分よって言葉をつないでくれた。
ついのすみか。
この五文字はわたしには重たくて遠かったけれど、親近感を覚えてもいた。百合子さんには言わなかったけれど、わたし死に場所を探してるところもあったから。でも死ねない理由ができてしまった。
さばさばとしながら彼女は話し続けてくれた。
「店長? 知ってる知ってる。知りすぎてるぐらいよ。開ちゃんでしょ。いい人よ、昔っからここの常連さんだし。よくあっちにも遊びに行くの。彼の息子にも道に迷ったって言ったらここの観覧車に乗れっていったのよ。それが出会いだったんだけど。ほんとに開ちゃんらしい。あなた乗ってみるといいわよ。なかなかいいんだから」
ジェリービーンズみたいな色をした観覧車。
チューリップみたいな形。その日乗ったのは青色のワゴンだった。こじんまりとしていて、なにかに包まれているような安堵感がある。
そのご婦人は百合子さんといった。
彼女が、地上から手を振ってくれていた。
わたしもそれにこたえて手を振った時、さっきくれたラベンダーの静かで涼しい匂いがワゴンいっぱいにひろがった。店長の言葉どおり窓の外を見た。見たけれどそこからは<キャフェ ちぎれ雲>はみえなかった。
見えたのはいくつかの電車の線路。
さっきまでわたしがいた場所だ。
池上線? 多摩川線? よくわからなかったけれどとにかく線路がみえた。セルリアンブルーや黄色、赤色の帯をまとった電車が通過していた。
ただ風景の方からもみられている気がして、気恥ずかしくて視線をもっと遠くに放つと、ふとぼんやりと、むこうの方にうっすらと富士山がみえた。
富士山だった。
あっ、富士山ってわたしは観覧車の中で声を漏らしていた。
「富士山はな、見て見ぬふりはあかんって。富士山には富士山やって声かけさせてもらわんと」
いつだったか新幹線で車窓から富士山を見つけた時、爽は持論を展開し始めたことがあった。
富士山や!って言ったのは車両の中で爽とちいさな男の子だけだった。
あの時は爽らしいと思いつつも恥ずかしいからやめてよって言って喧嘩した。
ひとり訪れた街の観覧車のワゴンの中で富士山をみていた時、よくわからないけれどひとりじゃなくてふたりでみている気がしていたのだ。
爽とふたりでみているって。
そんな気がしてすこし胸が熱くなった。
百合子さんにさよならするとき、彼女は「また来なさいね。あなた知ってる?あそうだ。今度の七夕にね、なんだっけそうそうワンダーナイト7・7っていう観覧車にのろうみたいなイベントがあるらしいの。その時また来てね。また会いたいから。あ、ちょっと待ってて」
百合子さんはお店の中から、イベントのフライヤーを持ってきてくれた。
<だいすきな人に言えなかった言葉、いまもありますか?>そんなフレーズが書かれたちらしが一枚そこにあった。
「町中大騒ぎするの大好きだから。じゃあね!あ、そうそうあなたお名前は?」
「あ、申し遅れました。柊小夏っていいます」
「ひいらぎこなつさん。こなつさんがこの街かまたにいるのね、ふふふ」ってツボにはまったみたいに百合子さんは笑っていた。
わたしはその意味がわからないままも、つられて笑った。
まだなにも始まっていないのに、もうすでにどこかで何かが始まっていたようなはじまりだった。
そして最後に、あなた社交ちゃんとできてるわよ。心配しなさんなって後ろ向きに手を振ってくれた。
フェスタプラザを後にして近くの人に訊ねながらなんとか、<キャフェ ちぎれ雲>にたどりついた。
すごく大きな音でカウベルが鳴った。
「遅くなりましてすみません。ヒイラギです」って声を掛けると店長さんらしきその人は鼻眼鏡をしながら眼光鋭くわたしを見た。見たというより視線で射貫かれた。わたしを確認すると一気に顔がほころんだ。
「さっきの電話の。ヒイラギさんね。観覧車乗った?」って嬉しそうに聞いてくる。こわいひとではなかった。
「乗ったんですけど、ここは見えませんでした」
開さんというその店長は鼻眼鏡を外すと、「あなた、おもしろい人だね」って、からかわれているような口調になった。
「そりゃ、こんなにちいさな喫茶店、みえませんよ。みえないみえない。でも見たでしょ、見えたでしょ、富士山」
急に背後から膝カックンされたみたいに拍子抜けしていたら、「見てほしかったのよ。あの中からみえる富士山をね。そうかみえましたか。よかったよかった」
話のきっかけだと思ってさっき会ったばかりの屋上の百合子さんというご婦人の話をしてみた。
「はいはい。エバーグリーンの百合子さんでしょ。ほんとうにお世話になってさ。俺のバカ息子。銀太っていうんだけどね。あそこでバイトさせてもらってね。今はプラントなんだっけ、ブランド? プラント?、なんたらプラントなんとかってよくわからないものになっちゃって、海の向こうに行ったきりだよ。百合子さんの影響力おそるべしなんだよ」
バカ息子っていう度に店長の開さんは相好を崩していた。
「ところでエプロン持ってきてくれた?」 と言ってる途中でカウベルがつよく鳴った。
店長をなにげなく見ると、わたしの時とおなじように眼光が鋭くなっていた。
誰かの訪れを待っているみたいな視線だった。
その日の夜は気が付かなかったけど。
早朝になってアパートのポストをみたらそこに四葉のクローバーが入っていた。
どこかでみかけたようなクローバーだった。
小学生か誰かのいたづらだろうなって思って、それを手に取ったせつな、スマホからお知らせの音が鳴った。
Lineが誰かから来ていた。
Lineなんてほっとくと増殖する。
未読だらけになって大切なお知らせは埋もれてゆくものだ。
今のわたしにとって大切なLineなんてなかったけど。
企業の広告だろうと思ってなにげなくスマホの画面をみた。
<コナツお誕生日覚えてくれてありがとう。イカ大根喰いたかった。>
え?
Lineはたしかに爽のアカウントからだった。
わたしはポストのそばで、声を出して驚いた。
そしてきょろきょろと周りを見た。
Line画面には字が浮かんでいた。
もう一度、それを手に取ってなぜか空にかざしてみた。
それはきらきらと反射して光るだけで、そこにはもう文字は見えなかった。
これ何現象?
Lineのバグ?
心臓がドクドク打ってた。
幻覚をみたのかもしれない。
爽の約束ってもしかしてこれ?
わたしは矢継ぎ早に呟いていた。
これ?
再びスマホを空にかざしていた。
画面をタップしたりスワイプしたりしたけどそこに文字は、もう見えなかった。
そしてわたしはヤバいぐらいに疲れているのだろうから一度忘れようと思った。
バイトも二週間ほど経つと少しずつ慣れて、常連客さんとも親しく会話できるようになっていた。
雨の日になると訪れるのは荒木源三郎さんだった。
「小夏ちゃん、おじさん雨の降る前の匂いにちょっと敏感なんだよね、その名前知ってる?ペトリコールって言うらしいんだよ。可愛いやね。」
源さんも可愛いらしいどや顔だった。
それを聞いた時すかさず靴屋の<IPPO>の歩さんが源ちゃんまたその話かよって割って入った。
「新しいバイトの人が入ってくるたびに、おじさんはねって話すんだもんな。それにいい年こいてさ、敏感って感じじゃないよ、ねぇ、」
「ねぇ」って歩さんがわたしに視線を送っていた。
ペトリコールの名を聞いた時に、わたしの中で突然米津玄師の同じタイトルの曲と歌詞が、鳴っていた。
これがゆめならいいのに、ただ彷徨いながら、こわがってとまどって、だれかのせいにしてしまいたい。
歌詞の言葉がランダムにわたしの頭を巡った後、この曲を爽とイヤホンをわけあってビルの屋上で聞いたことが、つよくわたしのなかで巡っていた。
あれはゲオスミンという物質が植物になにするのよって、源さんの言葉も遠くで聞こえていた。
みんななにかがなにしてる。
雨が降る時のあの湿った匂いを嗅ぐたびに、爽の声も米津玄師の曲も雨のどこかに紛れてるような気がする。
ふと源さんにみんなの視線が集まった。
源さんは心なしか、ぼっちの表情をしていた。打たれ弱い源さんってみんなが呼んでいる。
すかさず歩さんがフォローする。
「そういうさびしい顔すんなよ源ちゃん。でもね源さんの天気予報は結構あたるのよ、ちょっとこわいぐらいだよ。歩くザ・ウェザーニューズだねぇ」
ねぇって同意を求めた歩さんに、源さんは恥ずかしそうに肩をすくめていた。
「でね、小夏ちゃん、俺さ息子がいるんだけど。荒木翔っていうの。カッコつけた名前でしょ。ま、俺がつけたんだけどさ。ぜんぜん荒木翔って感じじゃないけど。いつでもいいから友達になってよね。あいつはほんと社交下手でさ」
歩さんが横から口をはさむ。
「っていうか、まだ、帰ってきてないんだろう翔ちゃん?」
「どちらかに行かれたんですか?」
わたしもつられて口をはさむ。
「どこだっけ、世界遺産の街、アーメンの国だよ。ほんとにどいつもこいつもここの野郎どもはしょうがないね」
ひとしきり息子さんの話をした後、大工の源さんはさてと帰るかと、腰をあげた。
「まだ、早いんじゃんないの? 雨ン日はずっと暇だろう?」
開さんが話しかける。
「失礼しちゃうな。いろいろやることあるしさ。それにあいつがいるからさ」
「あいつって、あれだろう?源さんほんとうにどうかしてるよ」
わたしは何もわからないまま、歩さんの問いかけをグラスをふきんでふきながらその会話に耳を傾けていた。
「なにかいけないかい?」
ちょっと強めの源さんの言葉だった。
「わかったよ、帰りな。帰りなよ」
その後で歩さんが教えてくれた。
源さんが帰りを急いでいたのは、観葉植物への水やりが残っていたためだったらしい。
「源ちゃんのセガレが海外へ行って会えなくなってから、やつはパキラっていう植物を育ててるのよ。百合子さんとこで買ったんだけどね。でさ面白いっていうかバカっていうね。警察の人がさ火事とか地震とかの災害に備えて家族は何人ですかとか訊ねるのあるだろう。あの時さ。うちには翔はいません。いるのは荒木パキラですって、真顔で警察さんに言ったらしいよ。ほんとうにみんなさどうかしてるよ、警察さんもえ?ってなるよな。」
その後、みんなでドット笑ったのだけど。
わたしは源さんの気持ちがなんとなくわかる気がした。
荒木パキラさん。
わたしはその感覚嫌いじゃないなって思った。
なんだかひとつの植物がこの街では生き生きと生きていて、彼らにはちゃんと居場所があることが今のわたしを慰めてもいた。
歩さんは帰り際、「小夏ちゃん、今度の七夕なんとかナイトとかっていうのがあのフェスタプラザの屋上であるのよ。観覧車にね、あれに来たらもっと変な奴、紹介してやるから、じゃあな。ちゃんと食って元気に働きな」
ちゃんと食って元気に働きな。
その言葉になぜか泣けた。
バイトが終わると、店長の開さんから赤いキーホルダーを預かって戸締りする。店の横に張り出している階段で2階のじぶんの部屋まで駆けあがる。
いつもだれかがにぎやかに話をしてるので、ひとりになると途端に静かな闇が心もとなくなる。そういうとき、必ず発してしまう。
「爽、どうしよう。大丈夫だと思う? これからのことだけど。もうなんでこういうときに死ぬかな。間が悪すぎるよ。ほんとに、ね、わたし爽が居ない暮らしなんて初めてなんだけど、生きていけるのわたし?」
バスルームに行こうとしてた時、どこからかメロディーが聞こえた気がした。ハミングみたいなやつ。
よく聞くと、あの「ペトリコール」だった。
網戸にしていたので、どこかの住人なのかと思ったけれど、わたしはそれが爽だとしか思えなくて、わたしもそっとそのハミングにわたしのそれをのっけた。
そしてお風呂の中で思いっきり米津玄師のそれを繰り返し聞いて、湯船の中で泣いた。
お腹に無意識に手をやりながらわたしはおへそのまわりをさすっていた。
覚悟はしている。けれどひたすらにこわいのだ。会ったこともない親の顔が、ワイドショーの見知らぬ犯罪者の顔と重なって、わたしは湯船に沈んだ。
翌日ポストの中に例のクローバーが入っていた。
そしてその日はLineは、届かなかった。
届かないLineをずっと待っていた。
空に向かって、「Lineほしいんだけど」って小さく叫んだ。
我に返るとかなりわたしはイカレテルンダって独り言ちた。
バイトを始めて一カ月ほど経ったある日。
店長が陶芸が趣味なので一度だけこの店で個展らしきものをやろうということになった。地元にしか配らないタウン誌に広告を載せてみた。
当日になって、常連のお客さんはやってきたけれど店長の陶芸目当てのお客さんはやってこなかった。
その日ちりりと電話が鳴った。
その電話の音にいつもと違う音色を感じたわたしは受話器を受け取った。
陶芸展に訪れたいのだけど場所を教えて頂けますか?という趣旨のことを聞いてきたお客さんからだった。
店の場所がなかなか説明しづらいのだけど。
ここに勤め始めるとわたしはそれなりに説明できるようになっていた。
それはこの場所が、一度訪れても二度とは訪れられないようなとても入り組んだ場所に建っていたからだ。
グーグルにも載らないような、誰にも知られていない場所。
時々この街の人たちは、ここを最果ての街として選んだようなそんな気持ちになることがある。
最後の砦と呼んでもいいのかもしれない。
受話器の向こうに向かってわたしは道順を説明していた。
駅の出口はひとつしかありませんので、西口の階段を降りると目の前に商店街「サンライズ」のシルビアというパチンコ屋さんがあります。そうです
パチンコ屋さんです。そこを右に見ながら、まっすぐ歩いてきてください。
左は空き地のフェンスがずっと続いていて、10メートルくらい歩いてきたら、そのフェンスにまるく穴が開いているところがみえるはずです。
で、それが確認できましたらそのことは忘れて、はい忘れてください。もういちど右をみるとひとつめの曲がり角に、小学校の建物が建っています。
緑色のかまぼこ型の屋根がみえると思うんですが、そこまでいらしたらたぶん古い自転車が錆びついたまま放置されているのがわかると思うのですが、それを右に見ながら今度は左に視線を移してみてください。小さな路地があります。路地の入口は「チューベローズ」という看板がかかっています。そのお店にはもう誰もいませんが、そこから数えて三件目がうちです。
この道順をわたしはいつかで何度も練習していた。台詞のように覚えた。
頭の中には俯瞰するように地図が浮かんでいる。
その道順をひとりで暗唱していたら「わかるかい!」って声が聞こえた気がした。たしかに部屋のどこからか聞こえたような気がしたのだ。
たぶん誰かさんだと思う。
「わかるかい!」っても一回言ってってわたしはリクエストしたけど、部屋はしーんとしていた。
あの日からポストに入るクローバーはもう何枚もわたしの部屋の引き出しに貯まっている。
スマホのLineはあれからは届かなくなっていた。
おかしいのはわかってるけど。
誰にも言えないけれどわたしはそのことにすがるように生きていた。
四十九日、三周忌まではわたしの願望も妄想もぜんぶ爽だと思うことにしている。そう決めた。
だから爽がすることのすべてをわたしは待っていた。
爽にはどこかで馬鹿にされてるわたしオリジナルの道順解説も店長の開さんには評判が良かった。
あの日道を聞いてきた人の電話対応を聴いていた開さんは「コナツちゃんすごいね、もうこの街の人間だね。めくるめく説明だもん。いくら相手がスマホ持ってるにしたってさ。おもしろいよ、実におもしろい」
店長はそういって笑った後、でさその女の人ってどんな声の人? って真剣なまなざしで聞いてきた。
どんなってふつうですよ。でも知的で甘えのない感じでした。あと、そうそうハスキーなってわたしが言った時、わかったコナツちゃんありがとうって手を目の前でひらひらさせて「もういいよ」の合図みたいに突然涙ぐんでハグをしてきた。
どういう展開かわからなくて突然だったからびっくりしたけど。
「ごめんね、これじゃセクハラになっちゃうね、失敬」
って厨房の奥に開さんは引っ込んだ。
なにか開さんがずっとこらえていたものがはちきれそうになった感情を秘めていたようなそんなハグだった。
その後やっぱりとかへぇとか一人合点した後、「なんでなんだよ、あいつは。店の行き方忘れちまったのかよ。俺おちょくられてるのか」
怒ったような自問自答。
謎の呟きをしていた。
そしていつの日かと同じく、カウベルが掛けられた樫の木の扉をほんとうに焦げつくほど見つめていた。
アメリカの映画なら店長の眼の前で指を鳴らしたり手のひらをひらひらさせて目覚めさせるシーンがあるけれど。それぐらい寡黙にカウベルは見つめられていた。
あんまりにも沈黙が怖いので「どなたかをお待ちなんですか?」ってわたしは勇気をもって尋ねてみた。返事が返らなかったので、答えたくないことを質問しちゃったのかもしれないと思っていたら「うん、ちょっとね」って少し恥ずかしいような我に返ったような不思議な雰囲気を店長は放った。
その人の訪れを店長は楽しみにしていたらしく、残念そうに夜になっても来ないことを知ると、珈琲豆の在庫のチェックをしに隣の部屋へと消えた。
その落胆した背中がいつもよりちっちゃくみえた。
疲れ切った彼は後はよろしくと言って、帰りの鍵をわたしに預けたまま店を後にした。
いつも渡される鍵を見る。
coachの赤い星型のキーホルダーにつけられていて、それはずっと大切にしている年季の入った風情だった。
朝になるとポストにはクローバーが入っていた。
そしてその日は久しぶりにLineが鳴った。
曇っていた日だったのでその文字はかろうじて見えた。
「コナツちゃんありがとう」
そう刻まれていた。どこかで聞いたことのあるフレーズだなって思ったら、開さんがわたしにハグした時の言葉だったことを思い出した。
爽はちょっと嫉妬してるのかもしれないなって思って小気味よかった。
ある日、<キャフェ ちぎれ雲>に百合子さんがやってきた。
「開ちゃんは? いないんだ。じゃ、ちょっとお邪魔させてもらって」
百合子さんは勝手を知ってるみたいだった。白いぽってりとして陶器のドリッパーを棚の上からだしてくる。
「あ、これあたし用なの」ってうれしそうな百合子さん。
豆を挽く音がする。
少しだけ贅沢したいときに寄る、チョコレートショップの珈琲が爽はすきだった。その匂いに似ていた。
息をするようにわたしは日々の中で爽を情けないぐらい思い出している。
「あ、大丈夫? 最近どう?」カップの準備をしながら百合子さんが声をかけてくれた。
「ありがとうございます。バイトにも慣れてきて」って話しだしたわたしを百合子さんは制して、「ちがうちがう。つらくない?」ってわたしのお腹あたりをみて、「あなたのそっちのほうが気になってね、来てみたの」って珈琲豆をカップで測るところだった。
わたしは思わず、黙ってうつむいてしまって。いつから百合子さんは知っていたんだろうって思った。
「あの日、屋上ではじめて会った日に、わかったのよ。わたしも一応大昔に母だったことがあるのよこれでもね。小夏ちゃんはお母さんになるんだなって。ぴんときたの。でも、なにか深い哀しみを堪えたままお母さんになるのかもって。ごめんね、ほんとおばあさんは差し出がましいよね」
今まで秘密をお腹に抱えたままこの街にやってきて、誰にも相談できなかったことが百合子さんの一言で、一気になにかがゆるんでいくのがわかった。
百合子さんには爽が、最果てで死んでしまったことや、魚が好きだったこと、子供ができたことを知った日が爽の命日になってしまったことをぜんぶ話した。ふたりがみなしご同士だった施設育ちだったこともぜんぶ。
「でも、顔をみて安心したわ。あの観覧車の日よりはずっといい顔してるわよ」。
「あの観覧車の日、そんなひどかったですかね?」
笑いながらわたしはおそるおそる尋ねてみた。
「ひどいっていうより、世の中のさびしいところの一番てっぺんだけを吞み込んだような顔をしていたもの」
「わ、その表現わかったような」
って言ったら百合子さんは、「わかったような」っていいよね。そっとそっちの仲間に入れてもらった気持ちになるから好きよ。そう言いながら豪快に笑ってくれた。
「よかったわね、この街で。みんなほんとにおせっかいでさ、寂しがりやでさ、バカばっか言ってるけど愛すべき人たち、でしょ。それにさ、あなた小夏ちゃんなのよかまたに住むしかないようなそんな運命だったのよ。これで彼がギンちゃんだったらすごいわらえるわ、あ、小夏ちゃんあたしさ銀太って子を知ってる」
すごい発見みたいな感じで百合子さんは、はしゃいでいた。
小夏っていう名前がどうしてこの街とぴったりなのかは、後で知った。
昔の邦画のことらしかった。
「うんめいですか?」ってひらがなの気持ちでこたえた後、部屋のなかに凪が訪れた。
コーヒーペーパーの中に挽かれた豆をさらさらとあずけて、お湯を注ぐ。
その時、しゅんしゅんとケトルの口からこぼれるのはまるで言葉みたいで。なにかのイントロのようにも聞こえた。ほのかにチョコレートの香りがする。
「あほらしいんだけどさ、このペーパーの上にひらがなののの字を書くようにすると、おいしいコーヒーが淹れられるって、開ちゃんに聞いたのよ。そういうことだけは、守りたくなるのよね、あたし」
百合子さんの腕の動きが「の」を描く。
しっとりとしたお湯を含んだ珈琲の粉はたちまち甘い香りを放つ。
湿ってゆくたびにこの香りが放たれて、瞬間漂ってくる空気の甘さってなんなんだろうって思いつつ温かな気持ちに満たされていた。
おいしそうな匂いですねって呟くと、今の小夏ちゃんの身体には悪いからコーヒーはダメよと言って、一口だけならねとたしなめられた。
「コナツは飲んだらあかんぞ」って。
何処からか爽の声が聞こえた気がした。
え? って声に出していた。
百合子さんがえ?ってなに?って笑った。
すみませんって言いながらわたしも笑った。
もう爽はタイミング悪いねんって心の中でつぶやいた。
爽のよくわからない出現にわたしは誰も信じてくれないと思うけれど一喜一憂している。
一瞬不安そうな顔をしていたのか、深いため息を吐くと百合子さんは、
「大丈夫、大丈夫。開ちゃんにはわたしから時期をみていうわ。がんばって産みなさいよ。いや頑張らなくていい。なにも考えずに。もうみんな大騒ぎだわよ。きっと。ここらへんの男衆は、はやくおじいちゃんになりたがってたから」
百合子さんのカップからはコーヒーの湯気が、わたしのマグカップからは、アッサムティの湯気が上がっていた。
その日、百合子さんは異国で飲んだことのある珈琲の話をしてくれた。
インドネシアにいるジャコウネコ「ルアック」がちゃんと甘くなるコーヒー豆だけを選んで食べる習性らしく、それがお腹の中でうまく精製されてそやがて珈琲豆になるという、嘘みたいな話だった。
お腹の中でうまく精製されたその豆がいかに最高で別格かっていうことを、熱く語ってくれた。
ネコの身体のなかで育んでこぼしていった珈琲豆。
酔っていたら飲めそうな気がしたけれど。
なんどもなんども百合子さんは幻の珈琲と呼んでいるのが面白かった。
その声を聴きながら、爽を亡くしたあの頃からすると。
今はこのささやかな部屋を包んでる香りも十分わたしにとっては、いつか消えてしまいそうなぐらい幻に近いなって思っていた。
二人のカップからそれぞれの香りを放つ湯気を見ていた。どの湯気も手を伸ばしてその手のひらをグウにしてそこに包んでしまいたいぐらい、消えないでほしかった。
「開ちゃんさ、そこのカウベルが鳴る時、すっごい怖い顔してみるクセ治ってる?」
百合子さんが店長の開さんの話をはじめた。
「しますします。わたしもはじめてここにお邪魔したとき、あの観覧車の日。ドアを開けておそくなりましてすみませんって言った途端、びっくりしました。ガン見されました。絶対怖い人かと思って、バイト先失敗したって瞬間思いましたよ」
きょとんとした百合子さんが、ああガンガン見てくるのガン見ね。
あなた若いのねって笑った。
おいしそうにブラジルショコラのコーヒーを一口飲んだあと「開ちゃんね、奥さんのことが好きだったのよ。わたしの店のエバーグリーンね、あのフェスタプラザのデパ地下で働いていて、ほんとうにいい子だったの。ちょっと開ちゃんにはもったいないぐらいね。でね、奥さんが最後に言った言葉を今でも信じてるのよ」
いつも知っている開さんとは違う顔を見たような気がした。
百合子さんの最後っていう言葉がとても気になっていた。
そして最後もそうだけど、その言葉がなになのかとても気になっていた。
「奥様の最後の言葉ってなんですか?」
「奥さんねみどりちゃんっていうの。あの子、カウベル、鳴らしてもいい?って言ったらしいんだけど。それをずっと大事にしててさ、開ちゃんは。だからカウベル鳴る度に、奥さんがやってくるんじゃないかって。あたしのコーヒーののの字なんかといっしょでさ、みんなささやかな何かを信じて生きてるものなのよ」
カウベル鳴らしていい? の意味がわからなかった。
「あほっ」て呟く爽の声がどこからかした。
天井をわたしは仰いだ。
百合子さんもつられて天井を仰いでいた。
なんかあるの?上に?
いいえ、すみません、なんにもないですとあわてて答えていた。
わたしのその視線の止め方を気にしながらも一気呵成に百合子さんは思い出した思い出の数だけ言っておかなければというような風情で、畳みかけた。
「あ、カウベル鳴らしてもいい?はね、そうよねわかんないよね。みどりちゃんがこの世からいなくなるまえの言葉なのよ」
わたしは息を吸うのも吐くのも忘れたかのように少し止めて聞いていた。
百合子さんは息を漏らしながら少し涙ぐんでいた。
「でもそういう開ちゃんの気持ちの根っこみたいなところ。みんな好きなのよ。もしかしたらみんなもどっかでみどりちゃんが生きて返ってあの店にやってくるって。それを信じて生きてるのかもしれないのよね、なぁんてね」
長い沈黙がふたりの間に流れた。
その時わたしは天井から聞こえたような気がした爽の「あほ」の意味がようやくわかった。
みどりさんはもうこの世にいないことを改めてかみしめていた。
百合子さんは何かを思い出しているみたいにコーヒーのカップをゆっくりソーサーに置いた。
わたしはずっと気になっていた<キャフェ ちぎれ雲>の壁にかかっている絵を開さんがいつもていねいにファイバークロスで拭いてゆく姿を思い出してあの絵って? って指さした。
「そうそう。みどりちゃんがね駅前のカルチャーセンターに通っててね、そこでの卒業制作らしいの」
連なる山々の向こうに星らしきものがひとつ輝いていた。
いつだったか、絵を拭きながら開さんが言っていた。
「小夏ちゃん、おじさん貧乏性だからさ手とか指を動かしてないと、こうなんていうか闇になつきやすくなっておっかないからね、ここらへんが」って胸のあたりを指さしながら話してくれた。
その時聞いた、闇に懐きやすくなるという言葉がわたしの心にそれからずっと居座っている。
開さんとわたしは境遇というかなにかが少し似ていた。
たぶん開さんは奥さんのみどりさんを想って、おかしくなりそうになる時間があったのかもしれない。
そういう意味ではわたしと開さんはじゅうぶん、同じ輪の中の人間だと思う。
そんな話をしてくれた百合子さんはその日からわたしにとってほんとうにお腹の子供のお祖母さんのような存在になった。
甘え方をしらないわたしは、百合子さんを居場所にしたいと密かに思っていた。
その日の夜のポストには、シロツメクサもなぜか入っていた。
そして少し遅れてLineが鳴った。
もうおしまいなのかと思ってスマホの画面を凝視していたら、メッセージが入った。
いつもより文字が薄く見えた。
「会いたいしさびしいな」って刻まれていた。
それはずるいし、ルール違反だと思った。
弱気な爽の言葉はわたしの胸に刻まれて。
この言葉も一緒にわたしはもうひとつの命と一緒に生きていくことを思い知らされて、腹が立っていた。
数日後<キャフェ ちぎれ雲>の店内にあるみどりさんが描いた絵をわたしは見ていた。
「あ小夏ちゃんお客さん居ない時は座ってていいよ。身体しんどいだろう」
百合子さんがあれからわたしの身体のことを開さんに話しておいてくれた。
開さんのやさしい言葉に甘えるようにすみませんでも大丈夫です。と無意識にお腹に手をやりながら答えていた。
「育ってきてるんだよね、まだわからないけど、それはすごいよね」
いのちなんだな、いのちかって開さんは独り言のように言葉を放った。
そのツイートのつぶやきのような一言は、まるでわたしの気持ちそのものだった。わたしはその重たさに押しつぶされそうになっていた。
おもむろに開さんは言葉を零す。
「その絵ね、もう外そうかと思って」
開さんの視線がみどりさんの壁に掛かっている絵に注がれていたので。開さんの言葉にわたしはびっくりして、それはだめですってここにきてはじめて、開さんの言葉をつよく否定した。
「どうしたんだい?おっかないなぁおじさん死ぬかと思った」
「開さんはしにません」
しぬとかいわないでほしい。
新しくであったひとたちはしぬとかいわないでほしかった。
あいつの描いた絵が好きなのかい?って問いかけられた。
わたしは何故なのかわからないけれど。「希望です」と答えていた。
「希望、かい?あいつのその絵が?そりゃまた、ありがとうね」
拙い絵だよって照れたみたいにつないだ言葉をやわらかく否定したかったけれど、少しわたしとしてはさらに大きくでてしまった。
「もし外すならわたしここを辞めます」と思わず言っていた。
「わかったよ、わかった。外しませんよ。小夏ちゃんがうちから居なくなったら寂しくてかなわないから。は・ず・し・ま・せ・ん」
って開さんがおどけて言った。
会ったことのないみどりさんが描いた絵に視線を預けた。穴が開くほど、みていた。
「いいのよいいの。感想とか言わなくても、言われたら余計にさびしくなっちゃうからね」って開さんは牽制した。
店長がいいのいいのって手のひらを左右に振ってると、ドアのカウベルが鳴った。
少しだけ、店長の瞳に緊張と希望の光が差し込んでいた。
わたしも息をのんでそのドアが開くのを待った。
もしかしたら、ほんとうは生きていたみどりさんがそこにいるかもしれないと、何かを託すように本気で思いたかった。
ふたりで固唾をのんで待った。
「今日はやけに暑いよね。ほんとうに凪町だけ、風がふいてないんじゃないの?気象庁かんべんしてよぉ~」
そこにいたのは常連の八百屋の芳信さんだった。
コントみたいな登場で、開さんはもう芳さんなのかよ、なんで紛らわしい時に入ってくんのさ~って笑った。
「まぎらわしいってなんよ~、え? 芳さんなのかよって俺はずっと芳さんなんだよ、まったくぅ。開ちゃん勘弁してよ~はこっちの台詞よ。喫茶店に入ってあげてさ紛らわしいなんぞ言われたの初めてよ。もうそりゃウケるね」
みんなに言うぞって芳信さんは中腰で笑っていた。
わたしもあのカウベルを鳴らすのはみどりさんだと願っていたから、一瞬心臓がバーストするかと思った。
もう開さんもわたしも半ばオカシイ。狂っているのだたぶん。
その時わたしは天井を見上げて、今、爽も笑って欲しいとその幻に似た声を待っていた。
炎天下の中を歩いていると。
ふいに寂しくなった。
はじめてフェスタプラザ訪れた時のあの観覧車に乗りたくなってそこの屋上に向かっていた。
それはちょっと言い訳で、百合子さんに会いたかったのかもしれない。
百合子さんはそこにいなかった。
「配達中」の看板がそこに立っていた。
屋上植物園のようになったフェスタプラザの屋上には、半円型の舞台があって、その前にはベンチがいくつか置かれてる。それは3列並んでいて、背もたれのペコちゃんマークは錆びていて、すごくすがれた風情を醸し出していた。
雨ざらしのせいか、さびさびでペコちゃんはもうペコ姐さんって感じで、
傷だらけの舌をたらりと垂らしたまま、ずっと屋上のベンチの背もたれにいる。
いつの間にか、ポストに入っているクローバーはもう束になるほどそこにあった。わたしはそれを出掛ける時は透明のジップロックに入れて鞄の中にしのばせていた。
深呼吸してみる。
鼻腔に潮の香りが紛れ込んできた気がした。
海なんて近くにないのに。
すこしだけ誰かの匂いを感じ取る。誰かって濁したけれど、訂正してみる。それはまぎれもなく爽だった。
あのロカ岬の絶壁でなんども吸っていたかもしれない大西洋の海の匂いをわたしも感じたかった。
「あら、こなっちゃん。」
力強い、ちょっとしゃがれた百合子さんの声がした。
最近は小夏じゃなくて、こなっちゃんって呼んでくれるようになった。
そんなささやかな時間の贈り物が嬉しかった。
お店の中には観葉植物が並んでいた。
このお店で荒木さんが買っていったらしいパキラのことを思い出した。
荒木パキラと名づけて、家族の一員として愛でてる荒木さんは息子さんの翔さんと会えたのかなって思う。
初めて見る植物たちたくさんありますってわたしが言ったら。
観葉植物を順を追って名前を教えてくれた。
「左端からカラジウム、クロトン、中段がドラセナ、コンシンナ、そして少し大きめの葉っぱのモンステラ」
おまじないみたいな名前が続いて、わたしは観葉植物の姿をじっとみていた。百合子さんが育ててきた百合子さんの人生を知っている大切な植物だと思うと、植物たちにとても近しい気持ちを抱きそうになった。
こなっちゃん知ってる?って言いながら、屋上の自販機で買ってきてくれたレモンスカッシュをこれどうぞって渡してくれた。
「すみません、いただきます」
お財布を出そうとしたら、いいのいいのおごりって言いながら勢いよくプルトップを開ける音がした。
「観葉植物ってさ、部屋の中の空気の汚れとか、もっと言うとみんなの折れてしまいそうな負のエネルギーとかを、ぜんぶ受け止めちゃうところがあるんだって。嘘みたいでしょ?そういう時って、葉の表面が湿っぽくなるのかな?なんかよくわからないけど、すぐにホコリを吸収しやすくなるみたいなのね。これおばちゃんちのお店だけだと思うけど。あたしはそう感じてるの。」
湿っぽくなるんですねって畳みかけた。
「そうなのよ、だからなおさらホコリを受け止めやすくなってしまうからほんとうに困るんだけど。そこで万能な道具があるのよ。こなっちゃんそれは、なんでしょう?」
え?
クイズなんかいって思いつつもすぐ答えを教えてくれると思ったらなかったので、答えに窮していたら「こなっちゃんこういう時は、参加するの、わからなくても答えてみて。ヒントは若い子が好きな調味料よ、はい答えてこなっちゃん」
カウントされているようなスリルがあって楽しくて、おろおろしながら、えっとえっと若い人が好きな調味料えっと、スイートチリソースですか?って慌てて答えた。
あははって笑い転げた百合子さんは、こなっちゃんそんなことしたらあの子たちひりひりして因幡の白兎になっちゃうよって笑った。
これよこれ、って店の奥からもってきてくれたのはマヨネーズだった。
「マヨネーズですか?」ってわたしは本当にびっくりしてリフレインした。
そうなのよ。マジっすかって感じでしょ?若い子は今何きいてもマジっすかって言うじゃない。そうなのよ、あの子たちは意外とマヨラーなのよって
百合子さんは楽しそうだった。
マヨラー知ってるんだって思った顔をしたのかもしれない。
「いちおうね、このビルには若い従業員の子たちいるから、お昼時の会話を盗んで知ったのよ」
って目尻をくしゃくしゃにいて微笑んでいた。
「例えばさ、アンスリウム。あ、アンスリウムって知ってる?ほらこのこのこと」
百合子さんはアンスリウムの飾ってあるほうを指さしてくれた。
「生花なのにさ、どんだけ頑張っても造花みたいに見えてしまうあれ。なんか残念だよねそういうところ。人のこと言えないんだけど。あの葉っぱを洗ってそれからティッシュにマヨネーズつけて拭くと、嘘みたいにこんなにぴっかぴか!ってなるのよ」
観葉植物たちはみんなの痛んだ心も吸い取るから、彼らのこともちゃんと直してあげないといけないのよね。あれを塗ってるとおこがましいけれど彼らの傷を治してるみたいな気持ちになるの。
百合子さんは天使ですと心の中でつぶやいた。
百合子さんの話を聞きながら、爽ともぜひ会って欲しかったなって思った。そしてふたりでここを訪れてみたかったと、心がすんとまっしろくなった。
「ほんとはここは心安らぐ空間っていう、ふわっとしたコンセプトだったんだけどね。でも、なんていうのかな、いつのまにかどこか悲しみを抱えた人達がやってくるようになって」
それって不思議よねって、百合子さんは深く息を吐いた。
「開ちゃんもそうなのよ、歩さんも源さんも芳さんだってみんなそう。あ、コバッチもそうよね。だからあたし、ここの植物たちとみんなの顔が重なるようにみえてきて、みんなどれも可愛いの。」
季節が少しだけ進みながら、時々つわりに苦しみながらも安定期を迎えたわたしは<ワンダーナイト、7・7>の夜を迎えた。
みんなつれだってフェスタプラザの屋上を目指した。
わたしのお腹は人目にはわからないけれど自分ではすこしだけ目だってききた気がして、ふわふわのワンピースの中でまるいものが泳いでいるような感覚がしていた。
みんな足元気を付けてねって声をかけてくれた。
屋上では観覧車の前には列が連なっていて、家族連れやカップルなどみんな並んでた。
はじめてお目にかかる鰻屋<万平>さんのご主人が、
「待つってのはいいね。なんかほらずっとむこうに未来があるみたいでさ」って言った時、
開さんがそうだ「未来ちゃんってのはどうかな、小夏ちゃん」ってなにか大発見したみたいに肩にぽんと触れた。
それが何のことかすぐわからなかったけれど、これから生まれてくるわたしと爽の子供の名前のことだと気づいて、言葉を失った。
そんなふうに生まれてくる子供の名前を開さんが気にかけてくれることがうれしくて言葉にならなかった。
「カタカナでもさ漢字でもひらがなだってなんかよくねぇか」って興奮しながら開さんがみんなに同意を求めると、そこにいた源さんが
「たまにね、開ちゃんはヒット飛ばすのよ」
っていって列に並んだみんながどっと笑った。
笑ったと同時に向こうから誰かがストライド広く歩く人がいて、開さんの背中をどんと押した。
若い男の人だった。
びっくりして開さんがふりかえると、「オヤジ、久しぶり生きてた?」って声をかけられていた。
息子さんの銀太さんだった。
金色にブリーチされた髪の毛が風にゆれていた。
その時わたしに軽く彼は会釈してくれたその瞬間、彼はわたしをみてえ? って言った。
「えっ? オヤジの?あのすみません」って銀太さんはおろおろしていた。
え?と、わたしもまた同じ声をしていた。
わたしは完全に何か誤解されている気がした。
わたしのお腹をさっとみて驚いたリアクションをした。
開さんはその意味が瞬間的に分かったようで銀太さんの後ろ頭をぽんっとはたいた。
「だよね。びっくりした。おやじのおいらくの恋かと思ったよ」って銀太さんの言葉にみんな笑い出して
「たまに顔見せたと思たら、しょうがねぇなぁお前は」って言いながら、
「小夏ちゃん、ほんとに絵にかいたみたいなバカ息子でしょつまんないことこいつがごめんね!」って手を合わせながらみんなの笑いを誘っていた。
「そんなことないです」ってわたしは手をひらひらせていた。
「ところでオマエなんでここにいるの?」って開さんが聞く。
「ほら、フェイスブックでみたのここのイベント、で懐かしくなってさ」って言った後、ふーんって腕を組んでもういちど銀太さんの頭をはたいた。
開さんも店ではみせない表情をしていた。
銀太さんは、開さんがふれた頭の後頭部を少し撫でて触んなよって感じの
口調だったけど、ちょっとだけ口角がゆるんでいた。
きっと小さい時にこんな顔をして笑っていたんだろうなっていうそんな笑みだった。
観覧車の中には笹の葉が飾ってあった。
テーブルの上には短冊が置いてある。
そこには<だいすきな人に言えなかった言葉をしたためてみませんか>と、キャッチフレーズが踊っていた。
短冊をひとりみていたのに、その時なぜか爽もそこにいるような錯覚がした。
誰にも言ってないけれど、爽が死んでから時々こんな気持ちになることがあった。
いないのに、いる。
あのLineもクローバーもそうだ。
生きている時は喧嘩しているのに、そこに爽はいないってさんざん思わせてくれた癖に、死んでからちゃんと、輪郭ありありといるなんて、ほんとずるい。
ずっと忘れさせてくれない作戦だなってわたしは観念していた。
<みらいなんて信じてなかったわたしの子供のなまえがみらいだなんて、おかしいけれど子供の名前決まりました>
七夕の短冊にはそう書いていた。
爽とこのままずっと話し続けたかった。
産むことへの不安もあったし、爽がこの世にいないことなんて一生許さないとも思ってた。
おしまいにはただひとこと、<ふたりのみらい>と短冊にそうしたためた。
七夕のイベントからしばらくして、百合子さんのお店が閉じられることを
知った。
百合子さんはあの七夕の日にはもうお店を閉めることも知っていたけれどみんなには黙っていた。
夜、こっそりと屋上を訪れた。
百合子さんがまだそこにいるような気がして、屋上階のボタンを押してエスカレーターに運ばれていた。
うっすらと人影があったように見えた
人影かもしれないと思ったのはあのペコちゃんの人形だった。
ベンチに誰かが座っているみたいにみえてびっくりした。
黄昏たくなる人たちがここにやってくるのかもしれないと、そっと気配を消すように、わたしはひっそりとそこにいたつもりだったけど。
屋上はイルミネーションも消えてうっすらと闇に包まていた。
鍵のかけられたフラワーショップの棚にはまだ観葉植物が置かれていた。
「あ、カラジウム、クロトン、ドラセナ、コンシンナ、モンステラ」
わたしはあの日教えてもらった彼らの名前をガラス越しに呼んでいた。
いつか百合子さんが話してくれた言葉を記憶のすみから引き出しながら
「エバーグリーン」の店内をぼんやりとみていた。
「ここを始めた時にね、思ったの。植物をこよなく愛する緑の指を持つ人間としてね一生を捧げたいって。植物って惜しみないでしょ。虫や鳥たちににただ与えるのよ。どこにもあるいてゆくことなく、生まれた場所だけでいきゆくしかない植物は、その成長のゆるやかさにおいて、その偉大さを忘れがちだけれど。ただ命の源を手渡すという行為は、なんだかね大きな掌みたいだなって思ったの。植物はただ植物であって、あの太陽を存分に吸い込む行為も、それはただほかの生き物に手渡すだけで、けっしてじぶんじしんのためではないところがとても、うつくしいじゃない? もっと植物はずるがしこいとか研究が進んでるのは知ってるけど。これはあたしが考えてる植物たちへのラブレターだから、学者さんの話とかはどうでもいいの。
かっこつけてるんじゃなくてさ、みんな今は傷ついているひとばかりでしょ。無駄に傷つけられて、傷つけて。正しいことだけを求めようとしている。だから、そういうなにか自分の居場所のような存在にしたいと思ったのよここを。世の中にそんな場所が一つぐらいあってもいいじゃないって」
百合子さんの言葉を思い出す。
屋上に風が吹き抜けた時、どこにも海はないのにまた潮の香りがした気がした。
その時、こみあげてくるものがあって涙がでそうになってすんでのところで止めた。
その時、わたしのLineのおしらせ音がぶるっと鳴った。
あの日の七夕の日、観覧車に乗りながらわたしは届くはずもないLineを爽のアカウントに送っていた。
<さっききまったよ。わたしたちのこどもの名前、みらいちゃんだからね、開さんが思いついて、みんなで納得して、わたしも凄く気に入ってる。憶えておいてね、みらいだからね>
そう書いて送ったLineには、うそみたいに既読がついた。
<とてもいい名前だと思う。おれたちの子供なのに名前を小夏まかせにしてごめん。柊みらい、アイドルみたいやな(笑)>
確かにそう書いてあった。
わたしはぶるっと背筋が凍るような、ほんとうはすぐそばに爽が居るような気持でその文面を読んでいた。
あの日観覧車の中で、もうひとつだけLineをやぶれかぶれでわたしは送っていた。
<おそろしく、記憶がわるかった爽だったからいつか忘れそうで怖いけど。
覚えておいてね。そして、時々そっちからわたしとみらいのことを呼んでみ
てほしい。聞こえないかもしれないけれど。みらいを抱っこしながらわたし
パパがいま呼んでるよって言いたいから。みらいなんて信じてなかったわた
しの子供のなまえがみらいだなんて、おかしいけれど、覚えておいてね>
やっぱり既読がついた。
<みらいと小夏のことずっと応援してるから。>
Lineのメッセージが届いた。
その時、屋上の入り口に灯りがついた。
ちわっすって声がした。
え? ピンク色のブリーチされた髪がライトを浴びてオレンジに見えた。
鍵をちらちらさせてる。
小夏さん、こんばんは。あ、俺で~す。銀太です。俺ね、百合子さんに鍵もらってきちゃったんですよ。グリーンショップとあれの。百合子さん突然やめちまうからさ、もう考えられないっすよね。
あれのって指さす先には観覧車があった。
「迷ったら観覧車に乗れ」っていうのがオヤジの口癖なんですけど。俺ね進路に迷ってます。で、これに乗りに来たんです。
小夏さんも乗ります?
ブースの中に彼が入った後、そっと観覧車のドアが開いた。
わたしはこれが3度目の観覧車だった。
はじめてここに降り立った日、<キャフェ ちぎれ雲>の場所がわからなかった時、「迷ったら、観覧車にのって」と言った開さんの声を思い出していた。そして二度目のあの七夕の夜のことも。
銀太さんは観覧車の前で、じゃそれぞれ乗りますかって笑った。
わたしは今日は爽とみらいとわたしの3人で乗っている気持ちがした。
Lineを見た。
なにも変化はなかった。
あの日ポストに入っていたクローバーも今、一緒にいる。
その時このクローバーのことを思い出した。
ロカ岬の石碑が建っている場所からの画像の中にひっそりと四葉のクローバーが映っていた。
旅先で爽が四葉のクローバーをみつけていたことにわたしは嬉しくなっていた。
そして観覧車のとなりのゴンドラから銀太さんが手を振ってるのが見えた。
Lineの音がした。
<おれにとってのしろねこは小夏やで、今もこれからも。そしてみらいもおれにとってのしろねこなんやで、おぼえといてな>
すぐ消えてしまうことはわかっているのに、わたしは爽が送ってくれたそのメッセージを指でなぞっていた。
観覧車の車窓からはあの日みたいに赤や緑やセルリアンブルーの電車が、夜の光を放ちながらにじんだまま走ってゆくのが、みえていた。
おわり。
お忙しい中長い間お付き合いいただきましてありがとうございます。
お読みいただけましたこと心より感謝申し上げます。 ゼロの紙拝。
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