指でつぶやく時、ひとしずくの希望がにじんでる。
突然の贈り物のようなふいな出来事が好きだ。
人を好きになるのは偶然だ。
それは突然の贈り物なのだと後になって気づく。
好きになるのではなくて、好きになっちゃった。
このなっちゃった感がわたしたちを切なくさせる。
あの人の名前を呼ぶだけで涙がでるとか。
あの人を好きだとあの人のいない場所で声にするときひとしずくの涙がでるとか。
ひとしずくのものが好き。
海の水は、昔のひとのみんなの涙のひとしずくが集まって
できたものだっていった詩人がいたけど。
海の波に身をまかせてゆらゆらしているとき
うっかり舌にそれが乗るととてもしょっぱいのは、いにしえの、彼らの涙が濃かったせいなのだと一時期おもっていたことがあった。
そして、好きになるのも偶然なら
言葉に出会うのだって偶然だ。
なにが書いてあるかわからない本を開く時
出会い頭に言葉にであって、そのことば好きだって思う。
誰にも言わないけれどあのページのあのひとことがすきだって。
ほんとうに身も心もゆるせるひとには、その言葉を教えるかもしれない。
昔むかし、言葉って偶然なのだということを知るような遊びをしたことを思い出す。
まっしろい紙に、すきなことばを鉛筆で綴る。
いちばんめは主語で、次は、述語でというふうに。
いちんばんめの人が書いた言葉の紙は、折ったまま
みえないようにして、つぎのひとへと渡してゆく。
前の人がなにを書いたか知らないままに、すべてのことばをみんなが書き終えた時に、いっせいにその紙を開く。
いつ、どこで、だれが、なにを、どうした。
それは、むかしむかしの大人たちが、はじめたらしい。
その遊びにはなぜか名前がついていた。
<カターヴル・エクスキ。妙なる屍>というのだと、
写真家の畠山直哉さんのエッセイで知った。
物騒だね。って感じのタイトルだけど。
ひらがなに開くと、たえなるしかばね。
たった8文字だけどやはり、おそろしい。
<たったひとつわかっているのは、みんなでこの紙をひろげたとき、
そこに文のかたちをしている何かがある、ということだ>
という遊び。
でもだれが
<完成させられたかをいうことはできない>と。
誰であっても永遠に終わらせられないともいえる。
畠山さんの文章がすきだなって思っていたら、むかしの朝日新聞の<折々のことば>で再び忘れていた彼の言葉と巡り会えた。
<いっそ「記録」は過去ではなく、未来に属していると考えたらどうだろう>
という言葉に続いて
<そう考えなければシャッターを切る指先に、いつも希望が込められてしまうことの理由がわからない>
と綴られている。
これを聞いた時わたしは、今こうしてnoteに書いていること
自体がそうなのかもしれないと思った。
紹介されている鷲田清一さんの言葉にも
<写真だけではない>
いろいろなひとたちの仕種やふるまいの中にも、
<きっと密やかな祈りが込められている。>と閉じられていた。
この言葉は、今年猛威をふるったあの病が起こるずっと前に掲載されていたものだ。
読み終えたとき、ふいに腑に落ちた。
すとんと心地よく、どこまでも下降してゆく感じに包まれた。
写真のシャッターを押す指にこめられた希望は、noteや言葉を指先で呟いてみる時にも、あてはめることができそうだった。
そこには、人知れずひとしずくの祈りのようなものが込められているような気がする。
胸の前で手を合わせる祈りだけではなく、日常のあらゆる場所に、祈りのはじまりの種がこぼれおちているものなのかもしれない。
終わりのないような不安を生きている今の時代にこの言葉を知ったことが、ささやかにぬくもりを感じる救いへとつながっていったような気がする。
残りすくない今年の日々が、みなさまにとっておだやかであたたかくありますように。
はじまりとおわりのボーダーにじませながら
逃げてゆく猫とつかの間抱擁したよ