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【掌編小説・たいせつにしすぎるとなくしちゃうよ】
最近、なにかを落としませんでしたか?
何かを見通したかのように、後輩の黒田が聞いてきた。
なんで?
なんとなく、そんな気がして。
なんとなくで、ふつう、そんな気はしないんだよ、黒田。
そうですか。そういうものですか。
黒田とは、なんか根本的にリズムが違う気がする。時々いらいらさせられるのだけれど。気が付くと黒田の言った言葉をじっと考えている瞬間があって。
余白の時間が訪れるとその言葉を頭いっぱいにぐるぐる巡らせていたりする。
ほらね、って気づかされて訳もなく黒田っ! って叫びたくなる。
落としたものなんかねぇよって思いつつも、忘れるっていうのとは微妙にちがうんだなって、あらためてなにかを見つけたときのような気持ちになっている。
おとすとわすれる。
おとしもの、わすれもの。
おとすとわすれてゆくもの。
おとしものをして、わすれられてゆくもの。
落とすは直前まで憶えていたのに、不注意なのだと電子辞書が教えてくれる。
でも、忘れるほうは、かつては思っていたはずなのに忘れてしまうことらしい。そういわれると、落としたものなんて数えきれないぐらいあるような気がして来て、たとえば今までの人生でうっかり落としたものたちが宿る引き出しがあったとしたら、その空間は隙間がないくらいにいっぱいになりそうな感じがしていた。
おとしたり、わすれたり。
わすれていたひとを、ふいにおもいだしたり。
知ってる?
なに?
つきよのばんに ぼたんがひとつ なみうちぎわにおちていた っていうの知ってる? 亮ちゃん。
それってチューって答えようとしたら、栞は返事なんか期待いていないみたいにそれは、むかしむかしの詩人の中原さんというひとが書いたんだよって答えた。
だから知ってるってって言おうとしたけど、栞が語りがたっていたので
口をつぐんだ。
「月夜の浜辺」っていうタイトルなの。なんかむかしっぽくていいよね。で、これからさ、月夜の浜辺ツアーしない?
なにそれ?
だから、浜辺でほんとうにボタンが落ちているかもしれないから、ボタンを拾った人が今日の夜ごはんをおごられるっていうルール。のる? のらない?
こういう無茶な提案をしてきたときに、のらないという選択肢は許されていないのを知っていたから、亮はうんうんって頷いた。
江の島に着いた。
磯臭さと花火の燃えかすがけっこう鼻につく。栞はちゃっかりおもちゃのスコップをどこからか見つけてきて、あたりかまわず掘っている。
犬ですかあなたは? と思いつつも、ゲームはもう始まっていた。
亮も仕方なく、しゃがんで手で掘る。爪の間に砂が入り込んできて気持ち悪い。俺なにしてんだ? って思いながら、指に触れるのは煙草の吸殻と貝殻の欠片ばかりだった。
栞。これって時間制限ある?
少し離れたところにいる栞に声をかける。でも彼女は夢中になっているのか、返事をしない。ただただひたすらスコップを動かしていた。
そばにいるのにいないんじゃないかって思うようなところが彼女にはあって。
そんなところに惹かれたけれど、ときおり不安になる。
しゃがんで栞は、ときどきちぇって舌打ちを打つ。
ゲームとなればなんでも真剣になりすぎて機嫌が悪くなるのがオチなので、栞には、この月夜の浜辺ツアーで、ちゃんとボタンをみつけてぜひとも一番になってほしいと思う。
あの日、亮はどっちも波打ち際のボタンなんて見つけられないって思っていたのに、ファミレスに着いた途端、今日は亮ちゃんのおごりだからね、って事も無げに言ってのけた。
そんなルールだったっけ? 栞だってみつけてないじゃん。そりゃメシぐらいおごるけど。
どうしてそういうこというかな? 秩序は守って。あたしは勝負事に関し
ては、引き寄せ体質になるって知ってるでしょ。
そうまくしたてると、誇らしげに栞はジーンズの後ろポケットから丸いものを差し出した。
それってもしかして、ボ、ボタン? うそ?
うそじゃないっ!
海辺のボタン? だよね。チューヤのあの詩のまんまじゃん。
ほら。
ほらって栞が言うからそれは、ほらすごいでしょのほらかなって思ったら、それはほらあげるよの、ほらだった。
だって戦利品だろ?
せんりひんって大げさな。あたしは亮ちゃんに勝ったからそれでいいの。
というようなことで亮は、栞のちいさなてのひらからそれを受け取った。
受け取ってから半年もしないうちに栞は亡くなった。
唯一、形見分けのように持ち歩いているのが海辺のボタンだった。
そんな遊びからもう2年にもなるのかと思う。
久しぶりに江の島に来てみようと、亮は思った。
亮の黒いジャケットのポケットの中で、水シボ模様のついた黒い変哲のないボタンがさっきから歩く速度に合わせて右や左にゆれている。
あの時と同じ江の島。たぶんこれはまだ傷口に塩をすりこむような行為だと知っていたけど、来てみた。
栞がしゃがんで必死にボタンを探していた時の姿が、すぐそばに浮かんでくる。
亮が砂浜に埋められている携帯をみつけたのは、海の家もどこにも見当たらない2020年の秋だった。
陽も暮れた砂浜がささやかに光っていることに気づいた。
栞の3回忌を終えて、少し酔っているせいなのか潮風に吹かれていると身体がぼんやりと疲れているのがわかった。
「3回忌ぐらいであたしのこと忘れてくれていいよ」
栞が微笑みながらかつて口にした言葉を思い出す。
ただただくやしくてなにも言えなかった。栞の眼には車のテールランプがいっしゅん映りこんで、さっと消えた。赤や青が混じったデジタルの河のような感じがした。
砂浜の砂の中で光ってるその光は、あの頃の栞の眼の中の光を思い出させたせいかもしれない。思わず携帯を手に取った。捨てられてる他人の携帯に耳を近づけて、おそるおそるもしもしと言ってみた。
誰の声も聞こえない。
亮は、嘘みたいにその掌のスマホの中に栞の声を探していた。俺も末期的だなって。ついでに波の音にまぎれながら縫うように聞こえてくればいいのにって、栞にすがってるのかって。
ただ潮騒を、耳の側ではなくてそのスマホの中で聞いていたい気分だった。携帯を通してこんな波の音聞いたのははじめてだった。
ふいに栞が黙った時、こういう時間のことを彼女はよく「会話の凪だね」って言っていたことを思い出す。
その砂浜に落ちていた知らない誰かのスマホに灯りが点る。
つじしおり。うそ?
見知った名前がそこにあった。しおり?しおり?
月夜の晩には、スマホが混線するって聞いたことがあったけど。都市伝説だと思っていたのに。
亮は耳元で聞き返してしまった。波の音をくぐって再びつじしおりですと、名前が呟かれた。そして落としちゃって、それ。
つじしおりさんが、ふいに声を出す。
つじさんが、わぁって耳元でさけんだ。
な、な、なんでしょうか?
ほら、見えます? 今、月が月がでてる、満月ですよね、どこも欠けていないから。満月ですよね。見えますか?
つじしおりさんが、あんまりはしゃいでいるので亮も見上げた。
まさしく、満月。
あの日、火葬場で栞の欠片を撒いた夜の海を見ながら、栞がじぶんをからかっている時の眼の中の光の粒をくっきりと思い出す。
さっきまで喋っていたしおりさんと電話を切った後、月も幻のように輝いていた。
海岸からの帰り道。すばな商店街を歩いた。てもちぶさただったので何気なく、ポケットの中を探る。
なかった。ないない。
はじめからなにもそこになかったかのようになかった。
栞からもらった海辺のボタンがどこにもなかった。
さっきまでの彼女、つじさんの声が3回忌を迎えた栞のいたづらのように思えてきて。ぼんやりと二日酔いの朝みたいな頭でふらふらと夢遊病者のように歩いていた。
どこかで落としてしまったんだ。あんなに大事にしていたはずなのに。
「ものってね、だいじにしすぎるとぜったいなくすんだから」
いつだったか、なくしたペリドットのピアスを悔やんでいた栞はそんなこ
とをじぶんに言い聞かせるように言っていた。
ほんとうにただしいよ、まったくもって栞はただしい。
月を見上げる。
ちゃんと満月だった、つじしおりさんの言うように。
栞が浜辺で、血眼になってみつけたボタンはいつもおまもりのようにポケットに潜ませていた。
どこかで栞の形見というか栞そのもののように思っていたのかもしれない。
誰かにとっては、とるにたらないものかもしれないあのボタンにそっくりな月が、亮の頭のてっぺんで光っていた。
栞もそれを近くでみているような気がして。
ザ・満月だな。栞は三日月が好きで満月はきらいだったっけ?
そして亮は、かき乱される思いでなんとなくつぶやいた。
黒田っ! おとしものしたよ。なんとなくおまえはいつもただしいよっ。
今日、栞とみている満月のことはずっと忘れないだろうと、心の中で呟いた。そんなせつな、忘れるってば、ぜったい亮ちゃん忘れるよわすれるさ忘れ・・・って、栞の声が、潮騒にまぎれて聞こえた気がした。
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