伊勢の初春 法住院(かさもり稲荷)の柴灯大護摩
明けましておめでとうございます。
初詣に伊勢神宮にお越しになった方も多いと思いますが、伊勢市、特に伊勢神宮の鳥居前町である宇治・山田の住民にとって、新春の行事と言えば近所の氏神様で行われる獅子舞の神事(「じんじ」と言われます。)とか、今回取り上げる法住院の「初かさもり大祭」でしょう。
伊勢神宮のおひざ元の伊勢市でも、神事や仏事に関心を持ったり関わったりする人は急激に減少しています。「初かさもり大祭」を支えている仏教者や檀家、近隣住民の方には感謝したいと思います。
<伊勢(宇治山田)の過酷な廃仏毀釈>
江戸時代まで、日本の一般的や宗教観は神仏習合でした。神と仏は一体のものであり、寺院ではご本尊に捧げる本来の仏事と並行して、神様に捧げる仏事である「法楽」も行うことは普通であり、伊勢神宮の近くには多くの法楽寺院が建ち並んでいました。江戸や上方など全国から伊勢神宮を目指した参宮客は、外宮に近い世義寺や常明寺、内宮に近い法楽舎や明王院など、さらには朝熊山にある金剛証寺などにもお参りしていくのはごく普通のことだったのです。
特に神仏習合が盛んだった江戸時代初めには、山田(外宮の鳥居前町)と宇治(内宮の鳥居前町)には371ケ寺という、途方もないほど大量の寺院が建ち並んでいました。
その後、江戸時代となって儒教が浸透するに従い徐々に寺院の整理統合が進み、江戸幕府が倒れて明治政府が王政復古を政治方針に掲げると、寺院は伊勢神宮の神聖性を汚す忌まわしい存在とされて、苛烈な廃仏毀釈が断行されました。
多くの寺院は廃寺を余儀なくされ、仏僧も還俗(明治政府は「復正」と呼びました。)しました。お寺の建物は解体され、仏像や仏具も焼却したり廃棄され、宇治山田の街から寺院はすっかり姿を消しました。
数十年経過した明治の終わりから大正時代にかけて一部の寺院は再興されましたが、現在でも宇治山田で大きな古刹を見かけることはほとんどありません。これは京都や奈良、鎌倉など他の歴史都市との大きな違いです。
<法住院(かさもり稲荷)とは>
華慶山法住院は、旧参宮街道の要衝であった筋向橋(すじかいばし)近くに建つ、天台宗の寺院です。
寺伝によれば平安時代初期の仁和年間(9世紀の初め)に智證大師(円珍)が建立したもので、その後、清重法印なる僧が中興。不動明王を本尊としており、その本堂の隣には天然痘に効験があらたかで、かさもり(瘡守りの意か?)さんと呼ばれ崇敬を集める稲荷社もあります。
法住院も明治の廃仏毀釈ではやはり廃寺の危機にあったようですが、運よく廃絶は免れ、現在まで存続しています。
「初かさもり大祭」は毎年1月13日に開かれる例祭で、御練りや柴灯大護摩が行われ、クライマックスともいえる火渡り、さらに餅撒きで大団円を迎えます。
法印や多くの山伏により厳修されたや柴灯大護摩は大迫力でした。般若心経が読経される中、煙も凄いし炎もすごいし、風も強かったので周り近所に火の粉が飛ばないかと心配になったほど。
こうした身の引き締まるような仏事を目の当たりにすると、仏様に加護されている安心感を感じるから不思議です。
<貴重な仏像の宝庫だった>
しかし、今回私が一番驚いたのは、法住院の本堂には多くの貴重な仏像が祀られているということでした。今日までそのことを全然知りませんでした。
ご本尊である不動明王像も特殊な仕様の珍しい像であるとのことでしたが、このほかにも、平安時代の作とされる仏像(傷みが酷い)や、鎌倉時代の慶派の仏師作と思われる地蔵菩薩像、戦国時代に伊勢國を支配していた北畠一族の念持仏とされる仏像など、さまざまな仏像が立派な厨子に祀られているのでした。(ただ、警備上の問題もあるでしょうから、インターネット上では他の貴重な仏像について詳しく書くことができません。)
関係者のお話によると、先ほどの明治の廃仏毀釈の際に、廃寺を余儀なくされた寺の本尊などが、運よく存続できた法住院に移されて、ここで祀られることになったのではないか、とも考えられるそうです。
伊勢市は約1500年近く昔から伊勢神宮と共に繁栄してきた都市ですが、実は重要文化財は驚くほどに少なく、伊勢市には市立博物館すらありません。
こうした文化財過疎は、明治の廃仏毀釈という愚行で多くの仏像・仏具・経典が破棄されたのが原因なのは明らかです。残念なことです。
今、ごく一部ではあるものの、貴重な仏像が、ここ法住院や、浄土真宗が盛んで宇治山田の廃棄仏像を多く引き取った三河國(愛知県東部)など他所の寺院に残っているのは、僥倖としか思えません。