【映画】「箱男」感想・レビュー・解説
さて、どうでもいいことではあるのだが、Filmarksの記録によると、この『箱男』が、僕がこれまでに観てきた映画の1000作目であるようだ。まあ、とりあえず記録として。
さて、本作『箱男』はやはり、よく分からなかった。「よく分からないだろうな」と想定して観に行ったので、それ自体は別に問題ではない。
さて、僕は原作の『箱男』を読んだことがあるようだ。「ようだ」と書いたのは、まったく記憶にないからである。映画と同様、読書記録もつけているのだが、それによると、今から20年ほど前に読んでいるらしい。全然覚えていない。
だから、映画を観ながら、「こんな話だっけ?」と思った。まあ、覚えていないのだから比較のしようもないのだが。
本作『箱男』は、途中まではなんとなく理解できたような気がする。「わたし」は、別の人物が担っていた「箱男」の座を奪い、自らが「箱男」となった。その生活は、「完璧な孤立」「完璧な匿名性」を有しており、また「私だけの暗室・洞窟」を支配できるもので、「わたし」は満足していた。執拗に追いかけてくるカメラマン(もしかしたらこいつも、自分の座を狙っているのかもしれない)や、よく分からない攻撃を仕掛けてくる乞食などに悩まされながらも、「わたし」は概ね、「箱男」として満足に生活していた。
しかしある日、「近くに病院があります」と言って、謎の女性がその地図を箱の中に入れてきた。罠だろうか。まあそう考えるのが自然だろう。しかしこの罠には乗っかってもいいかもしれない。そう「わたし」は考え、「箱」を脱ぎ捨てた姿で病院を訪れる。
一方、その病院で治療にあたるニセ医者は、白髪の男の世話をしつつ、葉子という看護師と共に病院を経営している。白髪の男は何か犯罪の計画を有しているようだが、よく分からない。そしてニセ医者は、その計画に協力するようでいてそうではなさそうである。
もちろん、「わたし」を病院へと呼び寄せたのは看護師の葉子であり、「わたし」はその存在に惹かれるが、ニセ医者と親しい関係であるらしい葉子は、「わたし」を窮地に追い詰める悪魔なのかもしれない。
そしてやがて、「本物の箱男」を巡る争いが始まることになり……。
というような話です。たぶん。
20年前、僕が原作小説を読んだ時にはまだ、今ほどスマホもSNSも広まっていなかったはずだ。もちろん、安部公房が本作を発表した時など、スマホの「ス」の字もなかったはずだ。しかしこの物語の中で執拗に提示される「匿名性」には、とても現代的な響きがある。僕らは「インターネット」を手に入れたことで「ほぼ完全な匿名性(情報開示請求などで身元は明らかになるので「ほぼ」と書いた)」を実現することになったが、安部公房が生きていた時代には「匿名性」が実現できる片鱗などほぼなかったはずだ。せいぜい、「覆面作家として活動する」ぐらいが関の山だっただろう。
そんな時代に「箱を被る」という形で「匿名性」を実現させ、それを物語として昇華させた安部公房にはちょっと驚きさえ感じさせられてしまう。
しかも、本作で描かれる「匿名性」には、「正体が分からない」というだけではない要素も含まれている。箱の中にいる「わたし」が、「箱男」として町中に潜んでいる時に、「仮に私の存在に気づいたとしても、見て見ぬふりする」みたいな実感を語る場面があるのだ。
そう、「箱男」というのは、「見られる側」である「わたし」がその正体を隠すという側面もあるわけだが、同時に「見る側」である世間が相手の正体を詮索しない、という要素も含むのである。この点で、「箱男」がもたらす「匿名性」は、ネット上の「匿名性」とはまた少し違ったものになると言えるだろう。
ネット上の「匿名性」はむしろ「詮索」を呼び覚ます。最近は、「GReeeeN(GRe4N BOYZ)」や「Ado」など、普通なら顔出しせずには行えない音楽活動を匿名のまま続ける人が出てきているが、やはりそういう人たちに対しては、「どんな人なんだろう」という興味は出てくるはずだし、それが過剰になれば「詮索」という形になっていくだろう。それは、ディズニーのキャラクターの「中の人」なんかに対しても向けられる視線と言えるだろう。
しかし「箱男」がもたらす「匿名性」はそうではない。世間は「箱男」を「そこにいないもの」として無視するし、また「箱男」に関心を抱く者であっても、「お前は誰だ?」という問いには意味を見出さない。「箱男」というのはそれで完結した存在であり、「中の人」が誰であるかなどどうでもいいのである。
そのような「匿名性」は、類似するものをパッとは思いつけないでいる。何かあるだろうか? まあ普通はあり得ないだろう。何故なら「箱男」というのは「普通誰からも憧れられない存在」であり、となれば「匿名である必然性」がまったくないということになるからだ。そして、「匿名である必然性」がないからこそ、「詮索」という行為が生まれないのである。
「『匿名である必然性』が無いのに『匿名』であるもの」は、世の中にはあまり存在しないだろう。だから、本作で描かれている「匿名性」は非常に特殊で、唯一無二であるように感じられた。
さて、本作でもう1つ問いかけられるのは、「本物とは何か?」である。この点に関しても、僕はよく考えることがある。
例えば「お札」。最近新紙幣が発行されたが、仮に誰かが、まったく同じ素材でまったく同じ技術で、まったく同じ印刷手法で「お札」を作ったとしても、それは「お札」とは認められない。ただの「偽札」である。「お札」の場合、「国(日銀)が発行した」という事実こそが「本物」の証なのであり、そうではないものは、たとえ材質や技術がすべて同じでも「本物」とは認められない。
同じようなことは、「ブランド物」に対しても感じる。例えばグッチのバッグとまったく同じ素材を使い、そしてかつてグッチに所属していた職人が作り上げたとしても、それはグッチのバッグではない。グッチが作るからグッチのバックなのであり、素材や製法が同じであることは、本質的には「本物」の証にはならないのだ。
では、翻って、本作で提示される「本物の箱男」とは、一体何を指すのだろうか? そう、作中では、その「本物さ」を巡って争いが続けられていたように思う。「本物の箱男である」という事実が一体何を指すのか誰も分かっていない。そもそもそんな問いは、「箱男」が1人しかいなければ成り立たないからだ。
そして「わたし」は、”前任”の「箱男」から奪い取る形で「箱男」になった。「わたし」にとっては、その事実を以って「本物の箱男である」と考えていただろう。”前任”がいなくなった時点で「本物の箱男」は存在しなくなった。であれば、「わたし」が新たに「箱男」になることで「本物の箱男」になれる、という理屈である。
では、「わたし」の存在が無くならない状況の中で、別の誰かが「本物の箱男」を名乗るためには、どうすべきだろうか?
本作の描写で興味深かったのは、「『箱男』の箱を買い取る」という話が出てくることだ。そそして一方で、「箱男になろうとする者」は、「箱男」が被っている箱の映像を観ながら目の前にある段ボールに汚しを入れている。
つまりこういうことだ。「わたし」から「箱」を奪うことで「本物の箱男」を不在にし、さらに「わたし」が被っていた箱そっくりの箱を新たに作ることで「本物の箱男」を名乗ろうというわけだ。
しかしここで不思議なことは、どうして「箱男になろうとする者」は、「買い取った『箱』を被る」という選択をしなかったのかということだ。「箱を買い取る」という話になっているのなら、その箱をそのまま被ればいい。そう考えるとここでは、先程僕が指摘したような、「素材や技術が同じでも『本物』とは言えない」みたいな話が関係しているような感じもあって、なかなか興味深い。
とまあ、この辺りまでは自分なりに色々解釈しながら観れたのだが、最後、「箱男」が改めて病院を訪ねてからの展開は「???」という感じでなんとも理解できなかった。
あと、謎の看護師が物語をかき乱すのだが、この看護師がエロさも生み出していて、ちょっとびっくりした。ますます「原作はこんな話だったっけ?」と感じたのである。
さて、個人的には、エンドロールの演出がよく出来ていると感じた。エンドロールは、恐らくすべて本人の直筆なのだろう、手書きの文字で構成されていた。そして作中では、「筆跡」もまた、「本物か否か」という要素として使われるのである(あの謎の器具がきっとそれに関係しているのだと思う)。
お札やバッグなどと同様、筆跡もまた「見た目が同じであっても『本物』ではない」という要素である。しかし、これもお札やバッグなどと同様、「結局のところ、見抜かれなければ『本物』と見なされる」のである。他にも「医師免許」「看護師資格」など、本作にはこのような「『本物』を巡る認識」が随所に登場するのだ。
そして作品全体のそんな主張を、エンドロールにも上手く反映させたということだろう。なかなか良くできた演出だったと思う。
さて最後に。公式HPを読んで知った、『箱男』映画化にまつわるエピソードに触れて終わろうと思う。
元々『箱男』という小説は、発表されて以降、ヨーロッパやハリウッドで映画化の企画が持ち上がったそうだが、その度に頓挫していたという。そしてそんな状況を繰り返す中、1986年、安部公房本人が最終的に映画化権を託したのが、本作監督石井岳龍だったのである。そして彼は1997年、ついに日独共同制作として正式に決定、スタッフ・キャストが撮影地であるドイツに渡ったのだが、クランクイン前日に日本側の資金不足により、なんと撮影自体が頓挫してしまったそうだ。
その後映画化権はハリウッドに渡るなどしており、制作の話も出たりしていたが結局上手く行かず。世界のマーケットでは「安部公房原作の映像化は不可能」と囁かれるまでになったそうだ。しかし石井岳龍監督は諦めていなかった。そして改めて企画を立ち上げ、企画頓挫の悲劇から27年、そして奇しくも安部公房生誕100周年にあたる2024年に公開にこぎつけたというわけだ。しかも、27年前に出演が決まっていた永瀬正敏、佐藤浩市を迎えて。
そんな風にして完成に至った作品なのである。この制作の裏話もまた、実に興味深いと言えるのではないかと思う。
まあそんなわけで、よく分からないと言えばよく分からないのだが、色々と思考が刺激される部分もあるし、また幻惑的な世界観もなかなか魅惑的で、全体的には観れて良かったなと思う。いやしかし、制作陣や役者はお疲れ様でしたという感じである。