【映画】「ヤジと民主主義 劇場拡大版」感想・レビュー・解説
いやー、これはめっちゃくっちゃ面白かった! 相変わらずどんな内容なのか調べずに映画館に行くので、本作もほぼタイトルぐらいしか知らなかったし、だから正直、観ない可能性もあった。これはホント、観て良かったなぁ。めっちゃくっちゃ面白かった!
さて、本作で扱われているのは、いわゆる「ヤジ排除裁判」と呼ばれているものだ。正直僕は、この出来事のことをまったく知らなかった。新聞は読んでおらず、テレビとネットニュースで世の中の話題を拾っているのだが、少なくとも僕の記憶では、この出来事を、テレビの報道やネットニュースの記事で見た記憶がない。もちろん、僕の見ていない範囲で報道は行われていたと思うが、少なくとも、大きな扱いではなかったとは言えるだろう。
しかしこの事件、ホントに「みんな」に関係ある話だと思う。裁判の原告になったソーシャルワーカーの大杉雅栄氏は、映画の最後にこんなことを言っていた。
『私にとって、裁判で争うことのメリットってまったくないんです。ただ、私は偶然その場に居合わせて、争う責任があると感じたから、結果として原告になっているだけです。だから、最初から一貫して、私は「公共の利益」を求め続けてきました。』
確かにその通りだと思う。裁判で争われた(現在最高裁への上告中なので「争われている」が正解だが)「ヤジ排除」は、まさに「表現の自由」に関するものであり、民主主義の根幹を揺るがすものだからだ。
なんて言われても、「はいはい、政治の話ね。しかも政権の批判でしょ。どうせ、権力者に文句言いたいだけだよね、分かった分かった」みたいにしか感じられないかもしれないが、恐らく、実際の映像を観ればそんな風にはとても言えないんじゃないかと思う。今ちょっと、YouTubeで実際の映像がないか探してみたけど、ちょっと見つからなかった。ホント、「原告2人が、安倍首相にヤジを飛ばしただけで警察から排除された」という動画だけでも観てほしいなと思う(本作では冒頭で、「肩書は取材当時のもの」と表記されるので、この記事でもそれに倣うことにする)。
それでは、「ヤジ排除」が裁判に至った、その経緯について説明しようと思う。
発端は、2019年7月15日に札幌市内で行われた、安倍首相による応援演説である。その演説を見に来ていたのが、先の大杉氏と、大学生だった桃井希生氏の2人。大杉氏は元々、「皆がヤジを飛ばすようなら、自分もそれに乗っかろう」というつもりで演説会場に向かったという。2017年に秋葉原で行われた、安倍首相が「あんな人たちには負けません」と発言して話題になって、あの演説のような状況を想定していたそうだ。
しかし現場では、誰一人反対の声を上げる者がいない。彼は最初、そのまま帰ろうかと思ったそうだ。しかし、「ここで声を上げるのも最悪だが、声を上げずに帰るのはもっと最悪だ」と考え、たった1人で「安倍辞めろ」と声を上げた。ちなみに、特定の政治団体には所属していないし、デモなどに参加したこともないそうだ。
さてすると、彼はすぐに近くにいた複数の警察官に身体を押さえつけられ、そのまま演説場所から離れる方向へと強制的に移動させられたのだ。大杉氏としては意味が分からない。選挙演説中にヤジを飛ばすことが「違法」のはずがないからだ。そこで彼は、取り囲む警察官に「法的根拠」を問いただす。しかし警察官はそれにまともに答えない。「周りの人の迷惑になるから」「演説を聞きたい人がちゃんと聞けないから」みたいな漠然とした理由だけ述べ、しかも、演説会場には絶対に向かわせないように進路妨害や身体の拘束などを行っているのである。
大杉氏は「法的強制力があるんですか?」と聞くが、「無いからお願いしているんです」と言われる。それに対して「じゃあ忖度しろってことですか?」と、当時安倍政権下でよく使われていた「忖度」という言葉を使って問うが、やはり暖簾に腕押しである。そんな押し問答をしている内に演説が終わってしまう。
彼はもう帰ろうかと思っていたそうだが、警察官から「この後どうするんですか?」と聞かれたことで、「そうか、確か大通りでもまた演説をするんだったな」と思い出したそうだ。それで、警察に付きまとわれながら大通りへ向かい、またヤジを飛ばすと、同じように排除される、という結果となった。
さて、もう1人の当事者である桃井氏は、ヤジを飛ばそうなんてまったく考えずにただ演説を聞いていたのだが、大杉氏が警察(彼女はその時点では警察だと思っていなかったようだが)に排除されるのを見て、「ヤジも飛ばせないような世の中はおかしい」と感じ、彼女も1人で「増税反対」と声を上げた。すると、やはり近くにいた警察官に拘束され、無理矢理演説場所から遠ざけられた。彼女も大杉氏と同じように法的根拠などを聞くが、とにかくまったく話が通じない。
しかも彼女の場合、演説が終わった後も、2km 1時間に渡って、2人の女性警官に腕を掴まれたまま歩く羽目になる。女性警官は、「あなたとウィンウィンの関係になりたいだけ」「ジュースでも買ってあげようか」と意味不明なことばかり口にしていた。
この件を不当と判断し、大杉氏と桃井氏は、北海道警察を相手取り裁判を起こす。刑事裁判はどちらも不起訴処分となったが、舞台を民事に移し、国家賠償請求訴訟という形で続くことになる、というわけだ。
現代的なのは、この「ヤジ排除」の様子が複数のカメラに収められていたということだ。大杉氏の場合は一緒にいた友人が、桃井氏の場合は自らのスマホで、状況を撮影していた。しかしそれだけではない。安倍首相の応援演説なのだから当然、マスコミのカメラもたくさんある。そしてそのような衆人環視の中で、堂々と排除が行われたのだ。
彼らの弁護を担当した弁護士は、「もし映像が無かったら裁判を勧めなかった」と言っていた。裁判を起こすことで、警察に一定の抑止を与えることが目的なわけで、負けてしまえばその抑止が利かないどころか、警察をのさばらせることにもなる。だから、敗訴することのデメリットがとても大きな裁判だったと語っていた。
また、確か元北海道警察の原田氏(退任後に、北海道警察の裏金問題を告発したりと、警察批判をすることで知られた人物)の発言だったと思うのだけど、
『一番恐ろしいのは、これが衆人環視の中で行われたことですよ。マスコミのカメラがあってもお構いなしだった。あなたたち、無視されたんですよ』
と言っていたのが印象的だった。もちろんこのことは、ある重要な点を示唆させる。「上からの明確な指示があったこと」である。
少し想像してみてほしい。あなたが安倍首相の応援演説の警護を行う警察官だったとしよう。そもそも上から指示がなければ、ヤジを飛ばした人の排除などするはずもないが、ちょっと無理のある想像をして、「現場の警察官が独自の判断でヤジを飛ばした人物を排除しようした」と考えてみよう。まあ、そういう使命感に駆られる警察官もいるかもしれない。
しかし、当然彼らは「マスコミのカメラの存在」を知っているはずだ。そして、「上からの指示がないのに、自分の勝手な判断でヤジを飛ばした人を排除した場合、何か問題になるのではないか」と躊躇するはずだと思う。普通の人間なら、するだろう。なにせ、「法的根拠の無い行動」を取ろうとしているのだから。
一応書いておくと、刑事裁判で不起訴処分となったのは「適法行為だったから」と判断されたからで、つまり「法的根拠があった」と見做されたのだろう。一方、映画に登場する専門家らは「明らかに違法」と言っているし、まあ普通に考えれば誰もがそう感じると思う。ちなみに、「演説の妨害」については1948年に最高裁が判例を出しており、「聴衆が演説を聴くことを不可能に、あるいは困難ならしめる行為」とされている。これは普通、「複数の人間が拡声器などを使って演説を妨害した場合」などが想定されており、「たった1人で、拡声器も使わずにヤジを飛ばした人間」が「演説の妨害」と見做されることはない。
さて、「上からの指示」が無い場合、マスコミのカメラもあり、もちろん個人がスマホで動画をバンバン撮れる時代に、現場の警察官の判断だけで、法的根拠の無い「ヤジを飛ばした人の排除」など出来るものだろうか? 普通に考えてこの事実は、「上からの指示があった」ということを示唆していると考えるのが自然だろう。
そして、その「上」というのが、実は「かなり上」なのではないかと想像させる状況が存在していたのだ。
2019年当時、警察庁警備局長を務めていたのが大石吉彦という人物なのだが、彼は実は、2012年から6年間、安倍首相の総理秘書官だったのである。当日の警備計画に関する情報開示請求を誰かが行ったのだが、全ページが黒塗りにされた状態だった。しかし隠されていない部分に「大石吉彦警察庁警備局長」の名前があり(それ自体は、警備計画の責任者なのだから当然と言えば当然だが)、黒塗りにされたところには、「大石氏からの、「ヤジを飛ばした人間を排除しろ」という指示が書かれているのではないか」と容易に推察される状況と言えるのである。
Wikipediaによると、彼は後に警視総監になっているそうだ。もちろん、警察庁警備局長という立場も警察内部では相当の立ち位置だろう。そんな人物からもし「通達」があったとすれば、そりゃあ現場としてはマスコミのカメラがあろうがなんだろうが、お構いなしに指示に従おうとするだろう。それが、映像に収められた「法的根拠がまったくないのに、問答無用で個人の権利を侵害し、強制力をもって拘束する」という行為に繋がっているとしか僕には考えられないのだ。
先程紹介した原田氏は、海部総理の警護に関わった経験があるそうだ。現職総理が来るとなれば、それはもう綿密な警護計画が策定されるという。まあ当然だろう。だから彼は、「現場の警察官の独断でやったなんてことはあり得ない」と断言していた。まあ、そりゃあそうだろうと僕も思う。
さて、裁判において警察はどのような主張をしたのかも確認しておこう。彼らとしてももちろん、「演説の妨害に対処しようとした」などという主張が通らないことは理解していたので、別の理屈を持ち出してきた。それが「警察官職務執行法」の第4条と第5条である。
ちょっと長いが、それぞれ条文をコピペしてみよう(「e-Gov法令検索」より)。
第4条 避難等の措置
『警察官は、人の生命若しくは身体に危険を及ぼし、又は財産に重大な損害を及ぼす虞のある天災、事変、工作物の損壊、交通事故、危険物の爆発、狂犬、奔馬の類等の出現、極端な雑踏等危険な事態がある場合においては、その場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に必要な警告を発し、及び特に急を要する場合においては、危害を受ける虞のある者に対し、その場の危害を避けしめるために必要な限度でこれを引き留め、若しくは避難させ、又はその場に居合わせた者、その事物の管理者その他関係者に対し、危害防止のため通常必要と認められる措置をとることを命じ、又は自らその措置をとることができる。』
第5条 犯罪の予防及び制止
『警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる。』
ざっくり言うと、第4条は「津波や爆発などの危険がある時には、人々の安全を確保するために、無理矢理避難させてもいいよ」、第5条は「まさに犯罪が行われようとしているのを防ぐためなら、強制的に静止してもいいよ」ということだ。北海道警察は、堂々とこのような条文を持ち出してきて、「職務は適法だった」と主張したのである。
普通に考えて、第4条が当てはまらないのは明らかだろう。要するに、「メチャクチャ危険な状況だったら、強制力を行使してもいいよ」ということだからだ。ヤジを飛ばした人が拘束された状況は、どう拡大解釈しようが、第4条に当てはまるわけがない。
また、第5条については、映画の中で専門家が「具体的な犯罪が行われようとしている状況」でなければ当てはまらないと言っていた。「何か犯罪が起こるかもしれない」という漠然とした状況ではなく、「このような犯罪が行われるだろうという強い確信」みたいなものが必要だというのである。
さて、この第5条に関係する話として、映画の中でも触れられているが、安倍元首相の銃撃事件や岸田総理の演説会場での爆発事件などが取り上げられている。僕はまったく知らなかったのだが、これらの事件を受けて、「札幌地裁の判決のせいで警備が後手に周り、このような事件が起こったのだ」という批判が上がっていたというのだ。
大杉氏と桃井氏が起こした民事裁判では、一審において「原告側の主張がほぼ100%受け入れられた判決」が出されていた。つまり、「ヤジを飛ばす行為は何ら問題はなく、警察官の行為は明らかに違法だった」という判決が下ったのである。そしてネットで批判していた者たちは、「この判決のせいで銃撃事件などが起こってしまったのだ」と言っているのである。
しかし当然だが、そんなわけがない。弁護を担当した弁護士は、「ヤジ排除」では「やるべきではないことをやったこと」が、そして「銃撃事件」では「やるべきことをやっていなかったこと」が問題なわけで、まったく性質が異なる、と言っていた。僕もそう思う。
しかも、札幌地裁の判決は実は、警察官の行為を「適法」と認めている箇所もある。それは、大杉氏が街宣車に向かって走り出そうとする場面で警察官が彼を取り押さえた場面だ。裁判官は、「この場面では、警察官が『原告が街宣車の人物に対して危害を加えようとしている』と判断するのは妥当」としており、この時の警察官の行為は「適法」だと考えていると判決の中で述べているのだ。別に札幌地裁の裁判官は「警備をするな」などと言っているわけではないのである。
しかし、事情はともかくとして、元首相の銃撃事件は起こってしまったわけで、その影響は控訴審にも及んだ。「及んだ」というのはあくまでも原告側がそう考えているという話なのだが、まあ確かに印象としてはそうならざるを得ないだろう。控訴審では、一審判決とは大分異なる結果が出てしまった。弁護士は、「こんな恣意的な判断がまかり通るなら、何のための司法か」と、記者会見でその憤りを表明していた。
控訴審では、北海道警察が新たな証拠を出してきた。それは、「大杉氏の近くにいた自民党員が、大杉氏に2度拳をついている」という映像である。北海道警察はこの映像を持って、「大杉氏が被害を受けるような犯罪が起こり得ることは明白であり、その予防的措置として大杉氏を引き離したのだ」という主張したのである。
しかし、僕が驚いたのは、「何故この証拠を一審で提出しなかったのか」である。その理由は、「映像に映った自民党員を犯罪者にしないため」である。北海道警察のこの主張を通すためには、「大杉氏を拳で2度ついた自民党員」を「大杉氏に暴行を加えた」と認定しなければならなくなる。だから、この自民党員の行為が時効になるのを待ってから映像を証拠として提出したというのだ。ホントに、国家権力というのはやりたい放題だなと感じた。
この点について、桃井氏が記者会見の場で実に的確なことを言っていた。
『北海道警察のこの主張が通るなら、例えば私が自民党員だとしてですよ、ヤジを飛ばしている人に暴行すれば、警察が排除してくれるわけですよね? そしたらみんな、暴行しませんか? なにせ、この自民党員の方は、なんとお咎めもないんですから』
確かにその通りだろう。また、「札幌地裁の判決のせいで銃撃事件が起こってしまった」みたいな関連性についての指摘についても、彼女は実に的確なことを口にしていた。
『初めは全然関係ないって思ってたんですけど、例えばですよ、ヤジさえ飛ばせない世の中だからこそ、暴力で自分の主張を通さなければならないと考える人が出てくる、とも解釈出来るわけですよね。そういう意味で、今ではむしろ関係あるんじゃないかと考えています』
と言っていた。こちらも実に「なるほど」という主張である。
映画の冒頭で、マルティン・ニーメラーという人物が遺したのだろう言葉が表示される。
『ナチスが共産主義者を連れて行った時、私は黙っていた。
共産主義者ではなかったからだ。
社会民主主義者が締め出された時、私は黙っていた。
社会民主主義者ではなかったからだ。
労働組合員が連れて行かれた時、私は黙っていた。
労働組合員ではなかったからだ。
そして、彼らが私を追ってきた時、私のために声をあげる者はもう誰一人残っていなかった。』
まさにこの言葉は、この映画で描かれる状況を示唆していると言えるだろう。マルティン・ニーメラーの視点は、この映画を観る私たちのものと同じかもしれないからだ。自分がこの「ヤジ排除」に関わっているわけではないから、別に声を上げなくてもいいだろう。そんな風に考えていると、やがてその問題が自分にも及んできた時には手遅れになっている、というわけだ。
映画には、桃井氏が警察官に拘束された際たまたますぐ近くにいたこともあり、裁判で証人として出廷した女性も登場した。彼女は「警察が主張するような危険な状況などではまったくなかった」と証言したのだが、さらに彼女は、
『周りの人は誰も何もしようとしなかったですね。ちょっと笑ってるみたいな人もいて、馬鹿にしているような感じでした。でも、私も何もしませんでしたからね。反省しています』
1人の女子学生を大勢の警察官が取り囲んでいる状況で市民に出来ることはほとんど無いとは思うが、いずれにせよ彼女の「私も何もしませんでした」という自覚は非常に重要なものだと思う。「自分ごととして捉えている」からだ。この映画で描かれていることを「他人ごと」だと思っていると、いつか実際に具体的な実害を自分が被ることになるかもしれない。そういう認識を持つことはとても大事だと思う。
元北海道警察の原田氏は、
『警察には、「治安維持のためなら、多少のやり過ぎや違法行為は許されるんじゃないか」という風潮がある』
と言っていた。そのような風潮も怖いし、僕はそもそも、「あのような行為を、当日現場にいた警察官は、何の疑問も抱かずに、それが正義であると信じてやっていたのかだろうか」みたいなことを考えてしまう。もしもそうだとしたら、本当にそれは恐ろしいことだなと思う。
世の中には、「世のため人のために働きたい」と考えている人はいるはずだし、そういう人が警察官を目指したりもするはずだが、しかし「上からの命令であまりに理不尽なこともやらなければならなくなる」という実態を知ってしまえば、警察官になりたいと考える人も減るんじゃないかと思う。「ヤジ排除」にしても、結果として裁判に発展し、北海道を巻き込む大きな問題に発展したわけで、むしろ何もしないでヤジを放置しておいた方が良かったのではないかとさえ思える状況になってしまっていると思う。
ホントに、「真っ当なことを真っ当にやろうよ」と感じてしまったし、自分がこんな国に住んでいるんだなと実感させられたことは、非常に残念だった。
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