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書店パトロール60  藝術の暑い秋

映画本コーナーで、非常に刺激的な本を発見。

VHSのジャケ、それも、B級どころを集めて解説している本だ。

副題がかっこいい。『VHSジャケット野性の美』。私も、ご多分に漏れず、VHSジャケットに魅了されていた世代だが、然し、まだコドモだったので、ホラーコーナーが怖かった。チャッキーやジェイソンが怖かったのだ。その頃は、まだ、レザーフェイスなど知る由もない。
今では大好きで、寧ろ、ホラーコーナーが一番楽しいのだが、やはり子供には刺激的。

パラパラ捲る。なかなか識らない映画がたくさんある。やはり、私はあんまり映画を観ていないなぁ。

その中に、先日亡くなったアラン・ドロンの『サムライ』があった。いや、見間違いかもしれない。多分あったような。

で、『サムライ』は大変に美しい映画であり、ビターで、かつ、病的な映画である。私は『サムライ』の盗聴器を発見するシーンが好きだ。いや、盗聴器を取り付けて、その後に、やっぱりもう少し上にしよ、とするシーン。好きだ。

で、この本は4,000円弱するが、まぁ、全然安いものだ。それくらい充実している。
 
で、次に、『美術家たちの学生時代』を手に取る。

非常に読みやすいインタビュー本。数多の藝術家たちが、自らの若い頃、学生時代、即ち、青春時代を回顧している。こういう、何かを成し遂げた人たちの青春時代を読むのは楽しい。

然し、最近、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン、即ち、USJのCMで、『ゾンビよ、これが青春だ』というキャッチコピーとともに、女子学生がダンスを踊る、そんなCMが大量に投下されている。が、私は、こういう類のCMがものすごく嫌いだ。青春というのは、青春が終わらない限りは、あれが青春であった、ということがわからないものなのだ。つまり、言葉で青春だ、と(まぁ、言わされているのだが)語る少年少女たちは、青春の何たるかを理解していない。その姿がまた青春を内包しているという、不思議さもあるが。

日本人は慢性青春病にかかっていて、学生が青春時代を謳歌している姿をCMにするのが好きだが、それは、例えばプール掃除であり、例えば入道雲であり、例えば甲子園であり、全て、カリカチュアされたイメージに過ぎない。
青春とは、後悔と痛みと裏切りと虚無の森であって、裏返すと愛と信頼と希望と夢の海でもある。そのアンビバレンツな感情の坩堝に落ちていく時期を指す。それを抜ける時、渡る時、その時に人はイノセンスを削られていくが、その結果、まずは最初の人間の形が出来上がる。

青春とは、獲得よりも喪失が大きい。その喪失感に思い至ることが青春であって、青春とは、失い、それを失ったことに気付いた時に完成するもので、青春とは単独では成立し得ない。
そして、青春は、思わぬ所に楔のように刺さっていて、思わぬことに将来涙を流すことになる。それは、大人になるまでわからないものなのだ。

まぁ、よくわからないことを書いているが、私はUSJは好きである。嫌いなのは、安易な青春押しのしょうもないCMであって、そして、青い春、というのは、人間の精神年齢が二十歳くらいでストップするのと同時、様々な分野で永劫続いていくのだ。なので、こういう、安易な学生時代と青春の結びつきは、その美しさを逆にスポイルしているのではあるまいか。

で、次に気なるのは、田名網敬一の本だ。

先日、日曜美術館でも放映されていた。今年の8月に亡くなった。展覧会が始まって、2日後に亡くなった。

見ていて目眩のするような色と絵、コラージュの洪水だ。若かりし頃の篠原有司男と一緒に肩を組んで写っている。いい写真だ。これは青春だな、と思える。

青春とは、確かに在った、いた、その時間そのものだ。

青春は、青春だと思って飛び込むのではない。結果、青春だった、それだけである。
然し、ギューちゃん、篠原有司男、彼の本は最高のものばかりなので、是非読んで頂きたい。
篠原有司男を見ていると、私は、私の贔屓の詩人である素潜り旬を思い出すのだ。何か、魂の質が似ている気がする。

詩のコーナーに移動すると、国書刊行会から刊行された美しい本が目を貫く。『ルバイヤート』である。
『ルバイヤート』はペルシャの偉大な詩人、オマル・ハイヤームの作品で、これはフランス人作家フランツ・トゥーサンの最もよく識られた仏語翻訳『ルバイヤート』を訳したものだという。

最近、詩集コーナーによく行く。

詩集、歌集。小説はつまらない。小説でも面白いものもたくさんあるだろうが、時間がかかるのと、物語というフォーマットに興味が無くなったので(それは、映画も、漫画も、そう)、文章、言葉そのものに興味が出ている。然し、それよりも重要なのは、本質をどうやって言葉で顕すのか、或いは形=書影、に、加えて、それが置かれている場所、時間、或いは匂い、様々な要因が、天空への鍵になっているが、私は未だにそれを追いかける途中だ。
私は、詩を書かないが、詩人の目で世界を見ている自負はある。

まぁ、そんなことを考えていると、パゾリーニの詩集が。

厚いし、高い。6,600円。私のような貧乏人には手が出ない。然し、なんというか、こういう、削ぎ落とした、中身のための本、というのはいいなぁ、と思える。パゾリーニの詩なんて読んだことないから、気になる。
と、その付近に置かれていた詩集にも目がいく。

これも装丁から入る。結句、本、というものは、装丁というのが本当に大切である。良い本は、中身だけじゃなくて、外見も良いものが多いのだ。それは、創り手の気配りが行き届いているからだろう。だから、私は、『ワンピース』とか、もちろん大好きではあるが、然し、表紙と背表紙の、あの、統一性のなさ、巻数の漢字表記、など、全くもって終わっていると思っている。

この詩集の中には、詩人の光合成、という言葉が出ているが、藝術家は全てそれぞれのやり方で光合成をしている。
そして、青春もまた光合成だ。希望と後悔と罪との光合成だ。青春はキレイでもなんでもない、当人にとっては。だから愛おしいのであって、失ったことに、心を貫かれるのだ。

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