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武甲山の歴史、民俗、郷土史

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武甲山の麓先祖代々旧家の生まれ。父から受け継いだ語りも交えて武甲山の歴史や横瀬の郷土史、伝説などを伝えていきます。(担当:なな)in東北
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記事一覧

秩父夜祭考察②「神話の世界」武甲山は荒川の銀河と結ばれる

秩父神社と武甲山の間にある「御旅所(おたびしょ)」。 そこは「亀石」がある所。(妙見の亀…

秩父夜祭考察①ミシャグジ(大宮郷の秩父妙見)

武甲山に妙見さんが降りてくるという祭。 決まって12月3日。 妙見とは、亀ですが実態が不明…

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【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡③根古屋の言い伝えとまとめ

根古屋の言い伝え集 ・古御嶽神社に国心行者と佐野正雄の石碑あり。熱心な御嶽行者。 ・鉢山…

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【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡②奥の院へ

つづき 聖徳太子・・・この石碑のみ東向きで奥の院と向き合っている。 なぜ聖徳太子?は、あ…

【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡①

10年くらい前になると思う。横瀬町の東、根古屋に古御嶽城跡がある。 古御嶽山頂に城があった…

武甲山のヤマトタケルと謎の神代文字

武甲山の山名由来は『武州秩父郡武甲山蔵王権現記』によると、 「夫れより相模国に至り又、武…

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秩父札所観音霊場九番ものがたり

『その昔、明智の郷に御堂あり。 小さな寺の近くには、母と息子がひっそりと人目をしのんで、暮らしていた。母は貧しく目も見えず、一人息子も小さくて外で働くことができず。 三度の食事もままならぬそんな苦しい生活に、ひたすら耐えていた。 そんな貧しい母子でも武甲山に手をあわせ、春夏秋冬それぞれの自然の恵みを頂いて、静かに暮らす姿には豊かな心を和ませる。 母は息子に手をひかれ、毎朝寺にお参りし、阿弥陀如来に手を合わせ、息子のどうぞ幸あれと心静かに祈る。 息子は今日も山郷の幸を求めて

秩父聖地説(江戸幕府にとって横瀬郷は関東鎮護の地?)

古来から伝わるという「秩父聖地説」というのがあった。 江戸時代1603年~1655年まで…

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猟師のこと(江戸幕府から唯一許された横瀬郷の鉄砲頭)

江戸城から鉄砲を借りることができ、横瀬郷のみ名前が記されていたこと。 1750年、この年…

祖霊信仰の武甲山

秩父は端山・深山信仰の構図にも当てはまるのだと思う。 「山形精神文化考:千歳 栄氏」より…

武甲山様、武甲山様。と、唱えると・・

武甲山に関する伝説の中、最も注目すべきは蛇・龍にまつわる物語。 「広報よこぜ(昭和年代)…

武甲山伝説「山姥の歯」

松藤絶えろ伝説昔、武甲山に山姥が住んでいた。 おそろしい神通力を持ち、里人を困らせていた…

徳川家康と武甲山

横瀬郷(よこぜごう)は、歴応3年(1340年)『安保文書(あんぼぶんしょ)』に「秩父郡横…

武甲山の熊野権現社の神職「守屋大隅」という人

根古屋にある牛伏堂とよばれる観音堂にお参りした時に「守屋大隅」の名を知り、その石碑があることから横瀬郷では知られた存在だったらしい。 武甲山の御嶽神社と私の先祖の氏神は代々守屋姓で、信州から来ていると聞いた。 守は「神を守る」意味から「守屋」を名付けていると聞く。 このまるっこい背中の神主さん。 この時の神主さんが最後であったと今は思う。 お天狗さまのお祭りも途絶えた。 牛伏像が置かれた観音堂(十一面観音)は武甲山がよく見える。 御堂は天明2年(1782年)に火災にあ