武甲山ものがたり
武甲山の麓先祖代々旧家の生まれ。父から受け継いだ語りも交えて武甲山の歴史や横瀬の郷土史、伝説などを伝えていきます。(担当:なな)in東北
武甲山の語り部会。自由に発信しまーす。 (担当:LEIKO in武蔵、あっちゃん in九州)
秩父神社と武甲山の間にある「御旅所(おたびしょ)」。 そこは「亀石」がある所。(妙見の亀石) 神事を執り行うのが最大の特徴である斎場祭を設ける。 武甲山に大蛇信仰があった為、天孫系(龍神)の秩父神社から 武甲山を大蛇とし、神社を龍としたのだろうか? お田植祭にするために、龍神=水にしたこと。 武甲山は「嶽山」と言われたように、 元来、秩父神社とは別であったと思い、 古代祭祀信仰かイワクラ信仰があったと想像。 「大蛇窪」がある大蛇=ミシャグチ(マナ)について、 そこから甕
武甲山に妙見さんが降りてくるという祭。 決まって12月3日。 妙見とは、亀ですが実態が不明。 龍神、甕、あるいは落ちてくる光・・・ 秩父神社の初見は、862年(貞観4年)その7年後、869年に貞観地震がおきる。 災害が多かった800年代で、東北では、鳥海山の噴火、秋田大地震など2度起こっており、その時に布教活動にきたのが天台宗の円仁(慈覚大師)。(出羽国へ) ※別説:東北の天台宗発祥は、福島県の霊山寺 秩父神社では、災害が起きるたびに神位をあげ、治安維持や祈願をする目的
根古屋の言い伝え集 ・古御嶽神社に国心行者と佐野正雄の石碑あり。熱心な御嶽行者。 ・鉢山指念仏講を行い当時の掛け軸を保存 ・鷹をとった家。宇根まで他所をふまずじ行けた。 ・将軍家の奥女中をしていた人のボタンの花手芸品が残っている。 ・昔、鉢形という家が火事になりその時屋根に白装束のお天狗様をかいて火をまぬがれた。 ・けんむし坂というのがある。根古屋城渡辺監物の住んでいた御屋敷の下にあったのでケンモツがケンムシに。 または、見張り番がいつも剣を持っていたため。 ・
つづき 聖徳太子・・・この石碑のみ東向きで奥の院と向き合っている。 なぜ聖徳太子?は、あんまりにも有名すぎて逆にわからない…。 純粋に平和を祈って建てられた気がするが。 登りきったところに平坦な場所にあるのが郭1としてある。 郭1には、⑨摩利支天・・・木曽御嶽山にはこの名前の山があり。 ⑩八坂神社・・・古御嶽神社の入口にもある。隣に猿田彦神が並んで祠あり。京都の祇園祭りと歴史があり、きゅうりの切り口に似ている五坊星の形の家紋が特徴。 このあたりの民家の言い伝えで(中
10年くらい前になると思う。横瀬町の東、根古屋に古御嶽城跡がある。 古御嶽山頂に城があった場所で、横瀬町指定史跡。 石碑がたくさんあるという情報をみつけ、仲間たちと探訪したことがあった。御嶽信仰について詳しいことはわからないが、これだけ多くの石碑を置くのは珍しい。 同じような所は、愛知県豊田市の白鳥山というところに御嶽信仰が たくさんの石碑が巨石の上にたっているのをみたことがある。 ここに城があったのは、妻坂峠を越えてやってくる敵に備えたとしているが、尾根や鞍部の急登は
武甲山の山名由来は『武州秩父郡武甲山蔵王権現記』によると、 「夫れより相模国に至り又、武蔵を巡りて太子自ら此嶽に登る。 ~且つ山の形勢を視るにぎぎとして威厳有もあたかも雄武に以て 甲冑を帯ぶるの形勢なり及って武甲山と名づく。」 ヤマトタケルが甲を置いたので武甲山と名付けたことは、 子どもの頃から山名由来でよく知っていた。 ヤマトタケルは、大碓命(おおうすのみこと)、小碓命(おうすのみこと)とよび、双子とされる事もある? ※大小を兼ねる名(兄弟など)伝説に多い。 そのヤマ
『その昔、明智の郷に御堂あり。 小さな寺の近くには、母と息子がひっそりと人目をしのんで、暮らしていた。母は貧しく目も見えず、一人息子も小さくて外で働くことができず。 三度の食事もままならぬそんな苦しい生活に、ひたすら耐えていた。 そんな貧しい母子でも武甲山に手をあわせ、春夏秋冬それぞれの自然の恵みを頂いて、静かに暮らす姿には豊かな心を和ませる。 母は息子に手をひかれ、毎朝寺にお参りし、阿弥陀如来に手を合わせ、息子のどうぞ幸あれと心静かに祈る。 息子は今日も山郷の幸を求めて
古来から伝わるという「秩父聖地説」というのがあった。 江戸時代1603年~1655年までの52年間、無検地があった。 →徳川家康が将軍だった頃。 各地で無検地だった地域はあったのだが、秩父は江戸幕府から(より以前からも)鉄砲を所持することを許されていた地域だったので、無検地がないというのは不自然なのだ。 江戸時代になってくると農民への課税負担が大きくなり、 一揆などが増えて混乱していく。 そのたび、財政難になると度々検地を行っていたが、 秩父はその一揆の治安維持にあた
江戸城から鉄砲を借りることができ、横瀬郷のみ名前が記されていたこと。 1750年、この年、横瀬村の数(名主組頭含む)およそ、 650人~700人の内、鉄砲をもち猟をする者50人~60人。 秩父領16ケ村合わせて、300人~400人と推定することができる。 江戸城に家臣を派遣し、各地の豪族領土に忠誠心を誓わすために 食料や鉄砲の数量を調査していた。 鉄砲請書というものがあり、江戸城から鉄砲を貸してもらうと、 「日常の手入れに関わらず猟時を守り、それ以外の時には打ちませ
秩父は端山・深山信仰の構図にも当てはまるのだと思う。 「山形精神文化考:千歳 栄氏」より--------------------- 死体を葬る→霊は山に昇る(里山)→33年を経て深山(葉山・羽山)に昇る→深山→さらに天に昇る。 山形県は強盗や殺人などの凶悪犯罪が日本一少ない。 背景には、道徳心の高さがあり山が育んだ山の信仰があるからと思います。 出羽三山は、自然崇拝と祖霊崇拝の二つが残っているとされています。 この二つの信仰は、人間の信仰心の二つの核で、哲学的な意味も含んで
武甲山に関する伝説の中、最も注目すべきは蛇・龍にまつわる物語。 「広報よこぜ(昭和年代)」に記されたこの「武甲山総合調査だより」は、とても面白い。 内容によれば、 里宮の守屋家のご先祖が残した「日本一武蔵国号蔵王碑文」によると、 ミコト登山で武山の大蛇窪に生息していた悪大蛇をこらしめ、 汝の罪は死に当るが里人のために風雨の事を司り九穀豊穣をもたらせ、 そうすれば、お前の罪を許しこの山の神として祭ってやろう、というのです。 大蛇は山神となり、後、嵯峨天皇の綸旨によって蔵王
松藤絶えろ伝説昔、武甲山に山姥が住んでいた。 おそろしい神通力を持ち、里人を困らせていた。 ある日、村を通りかかった行基が、この話を聞き、 武甲山の頂上で17日間の祈祷をした。 すると、山姥は神通力を失い、行基の前に姿を現した。 行基は山姥をとらえ、松の木に、藤つるでしばりつけると、 山姥は前非を悔い、自分の歯を抜いて行基に渡した。 しかしあまりのくやしさに「松藤絶えろ」とどなったので、それから、 武甲山には松と藤が生えなくなった。 ※この伝説は、他に山姥を畠山重忠と
横瀬郷(よこぜごう)は、歴応3年(1340年)『安保文書(あんぼぶんしょ)』に「秩父郡横瀬郷」とあるため、すでにこの頃には横瀬の地名が使われていた。 横瀬郷は忍藩の領地にあり、忍藩にいた松平家の家臣が横瀬郷の名主として勤めることになる。 ※忍藩→武蔵国埼玉郡に存在した藩。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸) 徳川家や松平家の関わりをもつ家臣だったため、江戸から役人がくると決まって横瀬郷は護衛についた。 しかし、街道から外れた山道に門番としておかれると「馬鹿にしている」と
イネハポ通信 定期的に秩父で女子会をしています。 しゅげん(修験)女子といっても別に何か修験道をやっているわけではもちろんない! でも中身はそんな感じで一度は煩悩を捨て、秩父の里を歩きながら社会から隔離する時間を設けるのも良い。 元々秩父は女性を受け入れる札所観音霊場の歴史があったので、そういう道を歩きながら、ゆっくりカフェで再開することありつつも、時代の変化を感じながら武甲山とともに人生を振り返る。 前につくったイネハポ通信。 一部ですが、読んでみてね。
根古屋にある牛伏堂とよばれる観音堂にお参りした時に「守屋大隅」の名を知り、その石碑があることから横瀬郷では知られた存在だったらしい。 武甲山の御嶽神社と私の先祖の氏神は代々守屋姓で、信州から来ていると聞いた。 守は「神を守る」意味から「守屋」を名付けていると聞く。 このまるっこい背中の神主さん。 この時の神主さんが最後であったと今は思う。 お天狗さまのお祭りも途絶えた。 牛伏像が置かれた観音堂(十一面観音)は武甲山がよく見える。 御堂は天明2年(1782年)に火災にあ
横瀬町の歴史では、武甲山を蔵王権現の基として猿田彦命を置いたと伝わっている。 かつて武甲山の山頂には、蔵王権現社・熊野権現社・大通両権現社やその末社などが所々に鎮座していたという。 蔵王権現社が本社とされ、明治初期には御嶽神社と改称された。 蔵王権現は541年に祀られた記録がありかなり古い。 武甲山の御嶽神社の秋祭りでは盛大に行われた記録がある。 「十月一日、払暁の雲をついて武甲山御嶽神社秋大祭の号砲煙火が響き渡る。里宮では神官が潔斉し心身を浄め祝詞を奉し神楽を奉納する