【根古屋】大量の神々の石碑がある古御嶽城跡②奥の院へ
つづき
聖徳太子・・・この石碑のみ東向きで奥の院と向き合っている。
なぜ聖徳太子?は、あんまりにも有名すぎて逆にわからない…。
純粋に平和を祈って建てられた気がするが。
登りきったところに平坦な場所にあるのが郭1としてある。
郭1には、⑨摩利支天・・・木曽御嶽山にはこの名前の山があり。
⑩八坂神社・・・古御嶽神社の入口にもある。隣に猿田彦神が並んで祠あり。京都の祇園祭りと歴史があり、きゅうりの切り口に似ている五坊星の形の家紋が特徴。
このあたりの民家の言い伝えで(中郷)、夏にきゅうり(祇園祭りのとき?)は食べないという家が何軒かある。
その先の尾根道に、⑬少那彦名命・・・なぜか大国主の石碑がない。
(⑬と武甲山)
⑭水天宮
その先もうひとつ郭2があり、そこが中心とされているようだ。
奥の院といわれる所には、
国常立命、国狭槌尊、豊斟淳尊・・・創世の神。
御嶽教は国常立命・大己貴命・少彦名命の三柱で、この三神を御嶽大神と称え開山霊神(覚明霊神・普寛霊神)と
天神地祇八百万神を配祀神としているといわれている。
御嶽大神は、天地開びゃく、国土開発、殖産興業、
治病など宇宙観をもった守護神であるとされており、
この世を生んだ神として国常立命をたてるのも御嶽信仰の特徴。
中心に宇宙の創世神が座し、左右に三大神と土着神。
それらを囲むように、(城を囲む?)数多くの石碑が建てられている。
北西に向かって建てられているので、その向きに意味があるのだろうか・・・?
国常立命は御嶽信仰で秩父では三峯神社と和銅開珎がある聖神社に祭られている。(他にもあるかもしれないけど)
これは和銅開珎に貢献した丹生氏と関係がありそう。
長瀞町井戸という地名に、金嶽春日神社がある。
このあたりは武蔵七党、丹党の根拠地。横瀬にも昔は丹生神社があった。
武蔵七党は、上野(群馬県)、下野(栃木県)、相模(神奈川県)平安後期~室町時代まで支配していた関東一の武士と鍛冶の集団だった。
飯能~秩父にかけて丹党は住んでいた事もあり、加治丘陵がある加治は鍛冶。そして飯能市の高麗は高麗国の里。
また鹿島神社の緯度は北緯35度58分、諏訪神社上社は北緯35度59分。その間に秩父神社(北緯35度59分)武甲山は北緯35度57分。
東西に直線に結ぶとほぼ同じ位置にあたる。
また、木曽御嶽山は、北緯35度53分。
氷川太神・・・土着信仰からアラハバキも考えられるが、
ここが武士団の聖地だったと考えると北条氏とも関係がありそう。
大宮にある氷川女体神社には、三室とよばれ三女神だ。
多くの財宝の蔵をもつことで埼玉の正倉院といわれている。
そこには武家からの信仰も厚く文化財指定になっている三鱗紋の太刀がある。これは、北条氏の家紋は三鱗紋であり北条泰時の奉納と伝わる。
秩父札所15番は三鱗紋。
奥の院の裏は、金山彦命⑳、大日尊21がある。
金山彦は和同黒谷のところに関係しているから、
丹生一族の子孫とつながりがありそう。
この先を歩いていくと三角山(大机山)にいくが、かなりの傾斜で今回は断念。。。
また三角という名前の山からして、見た目がピラミッドのように結構急な山だから謎。確認できたのは21個の石碑。(まだほかにもたくさんある)
さて、これだけの信仰深い石碑が集まる要因のひとつに、
武士の出身が多い根古屋地区の特徴が考えられると。
他の地区でも横瀬町は武士だった家が多いのだが。
横瀬町誌(総家一覧)より
根古屋地区の家に祀っている祠堂
八幡様(宮)13戸、若宮八幡大神6戸、
秋葉大神4戸、金山様3戸、稲荷神社2戸、山の神(生川にあった)2戸、
湯権現宮、白鬚大神、猿田彦神、水天宮、古峯神社、水神、聖神社、天満天神、天王様、大山阿夫利神社、おしゃぐり様、杵築神社、武甲山御嶽社里宮、熊野御嶽社里宮(いずれも守屋家が管理)
神明宮が各々1戸(1戸に複数信仰している家もあり)
根古屋の言い伝えを紹介しておきます。
次につづく