私の好きな剣豪 伊藤一刀斎

昔、伊藤一刀斎と名乗る剣豪がいました。
彼は各地を放浪し名のある武芸者に勝負を挑み、その全てに勝利しました。

ある時、彼が旅の途中に出会った人物に神子上典膳「後の徳川将軍家剣術指南役である小野忠明」という猛者がいました。
典膳は2尺8寸の長い真剣で何度も何度も一刀斎に挑みましたが、一刀斎の着ていた衣服にすら刃がかする事無く全敗しました。
その際に一刀斎が使用したのは1尺3寸のただの薪でした。

典膳はいよいよもって、彼こそは神の化身であると思い。
彼の弟子になる事を決意し、その許しを得て彼と共に修行の旅に出る事にしました。

一刀斎にはもう一人弟子がいました。
善鬼という漁師の猛者です。
彼は身長が2mは超えており5尺の棒「150cm」を持って一刀斎に挑みましたが、これまた彼に全敗し善鬼もまた彼に弟子入りを頼み共に修行の旅に出ました。

ある時、一刀斎は自分はもうやる事全部やったし自分の後継を選びたいと言い出しました。そして、後継者にはその証として私の使っていた瓶割刀という愛刀を授けると二人の弟子達に言いました。

一刀斎が言うに、弟子は二人いるが刀は一振りしかない。
今から君たち二人で真剣で立ち合って、勝った方にこの刀を与えてその者を後継者にすると言いました。

二人の弟子たちはこれを聞いて歓喜し、真剣で立ち合った後に勝ったのは典膳の方でした。

その後、徳川将軍家から一刀斎に是非将軍家の剣術指南役になって欲しいと頼みこまれましたが、彼はなんか面倒臭さそうだからその頼みを断り、その代わりに弟子である典膳を推挙しました。

一刀斎は典膳に愛刀を託し、徳川将軍家剣術指南役を任せた後、「私はやる事も特にないし、適当にどっか行って暮らすは。」と言い残し、一人何処かへと旅経ってしまいその後彼がどうなったかは誰も知りません。

師の一刀斎に託された典膳は後に徳川秀忠の一字を貰い改名し、小野忠明を名乗るようになりました。
小野忠明は江戸の他流派の道場へ、いわゆる道場破りに行くのが趣味で一度も敗北した事がなかったそうです。

小野忠明は自身が開いた流派の名前を「小野派一刀流」と名付けました。この一刀流というのは師である伊藤一刀斎の名から取ったものでしょうね。

一刀流はその後、様々な形態に分かれていき現代剣道の祖となりました。

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