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実は昨日、2024年8月21日に、ノンデュアリティの境地に至った。
実は昨日、2024年8月21日に、ノンデュアリティの境地に至った。
実は、昨日、2024年8月21日に、ノンデュアリティ(非二元)の境地にたどりついちゃったんだよね。
どういう経緯だったの?
まず、あるノンデュアリティ・スピーカーが、全ては関係しあってるからね、って言ってたんだ。(仏教でいう縁起だね。)
それで、自己省察していったと。
そしたら、自分の外の世界は、確かに、全ての存在に境目がない、って感覚になったんだ。でも、どうしても、自分が一体化しなかったんだ。
確かに、自分は、なかなか一体化しづらそうだな。
自力で行ってもうまく行かず・・・
「自分という感覚は認めるよ、でも実体がない」、っていうそのノンデュアリティ・スピーカーの言葉を、なんとか体感したいと思って、「自力」で頑張っちゃったの。
「自力」で獲得できるものじゃないでしょ?
自分では、これが「自力」だ、という思いがなかったんだ。バカだね。その後、やっぱりこれじゃだめだと思って、上のをやめて、今度は、「外の世界と自分は相互に関係しあってる」という感覚を得ようと思って、また「自力」で頑張っちゃったの。
それでも、自分が一体化しない、と。
そうだね・・・。
欲しがるほど、悟りは得にくくなる。
最後の決め手は、ノンデュアリティ・スピーカーの、この言葉だった。「欲しがるほど、悟りは得にくくなる。」
うーん、それは真理かもしれないね。
で、ボクは、ノンデュアリティを欲しがっていたから、感覚が掴めなかったんだ、と気づいた。そして自分が「自力」だったと、気づいたんだ。すると、とたんに、ノンデュアリティの感覚が沸き起こって来たんだ。
おめでとう!
ボクのノンデュアリティは二諦説的。
ボクのノンデュアリティは、前にも書いた、大乗仏教の重要思想の「二諦説」的だったの。
じゃあ、二諦説との関係が知りたいね。
で、ChatGPTにも、聞いてみたんだ。ChatGPTの回答も載せた。
ニ諦説とノンデュアリティとの関係
(ChatGPTの回答)
ニ諦説(にたいせつ)とノンデュアリティ(非二元性)は、異なる哲学的・宗教的伝統から生まれた概念ですが、両者には興味深い関連があります。
ニ諦説(にたいせつ)
ニ諦説は、仏教における二つの真理の理論を指します。この教えは、サンスクリット語で「二諦」(dva-satya)とも言い、以下の二つの真理を示します:
世俗諦(せぞくたい): 日常的な経験や相対的な現実の真理。これは、通常の感覚や思考によって認識される世界の真理です。
勝義諦(しょうぎたい): 究極の真理、つまり、すべての現象が空(くう)であり、独立した実体が存在しないことを示す真理です。これが「空」や「無我」などの教えに対応します。
ノンデュアリティ(非二元性)
ノンデュアリティは、二元的な分別が根本的に誤りであるという認識に基づく哲学や精神的実践です。この思想は、自己と他者、主観と客観、物質と精神などの分離が錯覚であり、すべてが一つの統一された現実の現れであると説きます。ノンデュアリティは、アドヴァイタ・ヴェーダーンタなどのヒンドゥー教哲学にも見られますが、仏教の思想にも通じるものがあります。
関連性
ニ諦説とノンデュアリティには、以下のような関連性が考えられます。
究極の真理としての非二元性:
勝義諦の観点から、すべての現象が空であり、独立した実体を持たないという理解は、ノンデュアリティの「すべてが一つである」という思想と重なる部分があります。究極の真理を体得することは、二元的な分別を超越することに他ならず、これが非二元性(ノンデュアリティ)と共鳴します。世俗的な認識と非二元性の体験:
世俗諦は、我々が通常経験する二元的な世界観を指します。しかし、ノンデュアリティの観点からは、これは表面的な認識に過ぎず、究極的な現実(勝義諦)に気づくことで、二元的な分別が解消されるとされます。悟りとノンデュアリティ:
仏教では、悟りとは勝義諦の真理に目覚めること、つまり二元的な見方を超えて、全体性や非二元性の真理を体得することです。これはノンデュアリティの理解と一致します。
結論
ニ諦説とノンデュアリティは、表面的には異なる文脈から来ていますが、両者は究極的な真理の体得において深く関連しています。ニ諦説は、二つの異なる真理のレベルを提示し、最終的にはノンデュアリティ的な一体性の理解に至る道筋を示していると言えます。
おまけ。世俗諦と勝義諦は、相互補完的な関係にあるのか?(ChatGPT)
世俗諦(せぞくたい)と勝義諦(しょうぎたい)は、仏教において相互補完的な関係にあります。この二つの真理は、異なる視点から同じ現実を説明しており、仏教の教えを理解するためにどちらも欠かせないものです。
相互補完的な関係
同一の現実の異なる側面:
世俗諦と勝義諦は、同じ現実を異なる視点から見るものです。世俗諦は、日常的な認識や常識的な理解に基づく現実を示し、勝義諦は、より深い洞察から見た究極の真理を示します。世俗諦は、現象が実在するかのように捉え、勝義諦は、その現象が実は空(くう)であることを示します。したがって、両者は同じ現実を異なる角度から捉えており、互いに補完し合う関係にあります。修行の道程としての関係:
仏教修行の中で、世俗諦から始めて勝義諦に至る道程が描かれます。修行者は最初、世俗諦に基づいて道徳的行為や瞑想を実践しますが、最終的には勝義諦を理解することで、現実の究極的な性質を悟るとされます。このプロセスでは、世俗諦が勝義諦への道筋として機能し、勝義諦の理解が深まると、世俗諦の見方も新たな意味を持つようになります。教義と実践のバランス:
世俗諦は、日常生活や実践において重要な役割を果たします。例えば、因果関係の理解や倫理的な行為は、世俗諦に基づくものです。一方、勝義諦は、これらの実践の究極的な意味や目的を理解するために不可欠です。二つの真理は、教義と実践のバランスを保ち、仏教徒が迷いや執着から解放されるための包括的な道を提供します。
ニ諦説のパラドックス
世俗諦と勝義諦が相互補完的であるという理解には、一種のパラドックスも含まれます。究極的には、勝義諦の視点から見ると、世俗諦さえも空であり、独立した実体を持たないものとして理解されます。しかし、日常的なレベルでは、世俗諦は依然として有効であり、我々の行動や認識の指針となります。このパラドックスを理解することが、仏教の深い智恵を体得するための鍵となります。
結論
世俗諦と勝義諦は、相反するものではなく、むしろ相互補完的な関係にあります。世俗諦が現象の表層を説明し、勝義諦がその根本的な真理を示すことで、仏教の教えが全体として一貫性を持つのです。両者を統合的に理解することが、仏教の智慧を深め、悟りへの道を歩む上で重要です。