徒然ならない話 #23 営みを取り戻す
文章を書くのはほぼ半年ぶりだ。
働き始め、社会人としての自分の生活ルーティーンが確立されるようになると、こういういわゆる「文化的な時間」に対してエネルギーを費やすハードルが高くなる。
自分の趣味もプライベートも、あくまで生活の「合間」の存在に成り下がってしまったような感覚だ。
仕方ないことではあるので、限られた中でどうインスピレーションや感動を得る体験をするかを考えなくてはならない。
そこでここ数ヶ月の僕は、自分でも驚くほど旅に出た。
旅といっても長距離の旅だけではなくて、近所の通ったことのない道を散歩したり、降りたことや使ったことのない駅の周りのごはん屋さんを訪ねたり。
少しでも「いつもと違う何か」を摂取することで、些細な変化を毎日に取り入れている。
すると不思議と、ハリのない生活にも語りたくなる種が生まれるのである。
もう一つの方法はとってもシンプルで、作品に触れることだ。
これは大学時代から続けていることだが、社会人になってから少し疎かになっていた部分でもあった。
なので意識して映画館で映画を見たり、毎週本屋に出向いたりしている。
この秋から冬にかけては特に豊作で、今までになく大きなインスピレーションを受け取れた作品が多かった。
久しぶりのnoteなので、文章を書く感覚を取り戻すリハビリも兼ねてじっくり話していこうと思う。
『キリエのうた』(映画・書籍/岩井俊二,2023)
歌でしか声を出せない謎の路上シンガー・キリエ(アイナ・ジ・エンド)を中心として紡がれる13年の物語を描いた作品。
才能を解放させていくキリエを支えながらも、過去に底知れぬ影を纏うイッコ(広瀬すず)、同じく過去に贖いきれない罪を抱えた夏彦(松村北斗)ら、一人一人の登場人物たちに降りかかる悲劇はあまりに凄惨で目を覆いたくなるほどだ。
劇場で体が硬直するほど苦しい感覚を覚えたのは、正真正銘この映画だけだ。
約3時間にも及ぶ大河を渡り切った後に僕が感じたのは、虚しさにも似た喪失感と、それでも捨て切れない未来への欲求だった。
岩井俊二が描く世界はいつだって刺々しさを孕んでいて、懸命に生きたいと足掻く僕達にそれでも止まってくれない苦しい運命を向かわせる。
どこかポエティックなセリフとキャラクターがこうもズタズタに心に刻み込まれるのは、彼がどこまでも人の琴線に近いところを見つめているからだ。
アンビバレントな絶望感と欲望を抱える僕達が生き抜く術を求め続ける理由を、そしてそんなものなどないことを、物語を通して感じさせてくれる。
結局、少なくとも僕は、この世に生き方なんてないんだろうと思うし、やり過ごしてやり過ごして、それでも何か生み出される作品を通して自分の感情を見つめ直すんだと思う。
『正欲』(映画・書籍/朝井リョウ, 2021)
ガツンときた。
今まで自分があれこれ言い連ねてきたことが全部、自分が許容できる世界の中だけのものだと思い知らされた。それどころかもはや、この映画を見て考えに耽り言葉を探すことすらも、小さい世界の話にすら思える。
多様性や権利、個人という言葉を擦るほど乱用する時代となった今、その根幹を本当に捉えられている人はいるんだろうか。
倫理道徳という、人間の感情に深く刻まれた規範すらも想像し得ない「個」の存在が語られる今、平等や尊重という言葉の崩壊が始まろうとしている。
どう考えても、尊重できないものや許されないものがある。
その事実は、社会を成り立たせるためには必要なことでも、浮き彫りになってきた本当の個を静かに拒絶しなければならないものでもある。
しかもここまで書いておいて、「尊重する」「許す」のは結局誰なんだ、と思う。もちろん僕自身だし、それは社会であり「みんな」でもある。
だがそのセッティング自体が、この議論においては無意味かも知れない。
みんなが誰かにとっての禁忌で、罪で、不道徳だ。
そんなことを言ったら全部がめちゃくちゃになるし議論のしようがないかも知れないが、そもそも決着できるようなテーマではないし、広すぎる世界が簡単に見れるようになった今、「多様性」なんて言葉を前に本当に正しいことを語れる人間はいないはずだと思う。
だから朝井リョウは、『正欲』を通して話そうとしていると感じた。
話しきれないことを、何度も話し続けることを。
『BAD KIDS』(書籍/村山由佳, 1994)
美しい青春の痛みと喜びを描いた小説は数多存在するが、
心にすんなりとフィットしてくれる作品は限られる。
『BAD KIDS』は着地の心地よさが段違いだった。
年上の写真家に翻弄され、思い通りにならない心と体に苦悩する写真部の女子高生・都と、同性の親友に恋心を抱いてしまったことで葛藤に追い込まれるラグビー部のエース・隆之。
交わりそうもない彼女たちの時間は、都が偶然撮影してしまった隆之の写真によって一変する。
都や隆之は、自分のものなのにいうことを聞いてくれない心と体に傷付き、お互いの苦悩に触れ合う。
二人の関係は男女や友人のそれとは異なる領域に達し、周囲を巻き込んでやがて大きな変化をもたらしていく。
僕達の心と体は必ずしも望みとは一致しない。
やり切れない現実を前にして、達観に見せかけた諦めを感じるのが大人ならば、その手前にいるのがティーンだろう。
都と隆之はそれを、性愛や友愛とは異なる結びつきで乗り越えようとする。
結局二人の問題は何一つ良い方向に完結しないまま物語は終わるが、彼女たちに生まれた関係性は何にも変え難い価値を持つものだ。
『夜明けのすべて』(瀬尾まいこ, 2020)にも共通するものを感じたが、昨今描かれる「価値ある関係性」の中にあるものは、多様化した個性やラベリングを介在しない、わずかに残された純真さによるつながりだと思う。
個々人の指向が実は把握などできないほどに複雑で膨大であることが明らかになりつつある今、そうした不確定なピースよりも純粋で原初的な感覚に「関係性」の肝があるような気がする。
似たような悩みがあるから寄り添うわけではないし、自分に救いを求めて繋がるわけでもなくても、自然と支え合う二人の間に感情が生まれるのはなぜだろう。
それは愛のようであって恋や友情とも絶妙に違う気がするし、隆之たちはそれを最終的に愛こそが一番近いものとして認識するけれど、実際のところはわからない。
ただ都が思い出した風景のように、それぞれに心の原初に根付いた感覚があって、そこが触れ合う人同士が出会った時、動機がなくてもそこに愛、のような何かが生まれるのかも知れないと思った。
思ったよりも筆が進んだ。
自分には相も変わらず苦しくて思い通りにいかない毎日が続くけれど、吐き出す場所と人がいる限り言葉は止まらない。
今日も明日も、僕は本を読むし映画を見る。
それは、騙し騙しでも明日の自分にバトンを繋ぐためだ。