今日8月が終わった。もしかすると昨日かもしれないが、私にはわからない。

 いつの間にか8月が終わってしまった。上海の暑さも山場を超えた。ホッとするのだが、なにか寂しい気がしないこともない。と思って外に出たらめちゃくちゃ暑かった。

 大学時代、カミュ『異邦人』の冒頭の日本語訳を読み比べるというゼミに参加したことがあった。中村光夫、窪田啓作、野崎歓(部分訳)を比較するというものであった。最後に「優れた翻訳とは」というテーマでレポートを書いたことを覚えている。レポートをこの記事に載せようかと思ったが、表や注釈が多く、そのままコピペする事ができないのでまたの機会にする。

 よく旅先の本屋に行くのだが、何も買うものがないと『異邦人』を手に取る。薄くて持ち歩くにはちょうどいいからだ。そのせいで、多分私は5冊はもっている。なぜか上海にも2冊ある。これは引っ越しの際に、荷物の精査が甘かったからだ。
 今まさに、文字通り私は異邦人なわけだが、この小説の異邦人とは意味が異なる。

 旅先で買ってしまう本は、他に柳田國男の『遠野物語』もある。これも大体の本屋には置いてあって、それほど厚くなく、しかもそれぞれの話が長くないから便利だからだ。日本出国前に最後に買ったのも『遠野物語』だった(あと、荷物の発送時に発売していなかった『レヴィナス読本』)。

 旅先で買って一番良かった本は、長野に住んでいた頃新潟旅行で買った堀江敏幸氏の『いつか王子駅で』。ずっと前に書いた感想が見つかったので、載せておくことにする。


 東京のある街に住む私(語り手)は、ある飲み屋で一人の印鑑の彫師と知り合いになり、なんども同席する。ある日、飲み過ぎて数分寝てしまった夜、彫師は先に店を出てしまう。目を覚ました時、彼の席に紙袋に入った箱が残されていることに気がつく。まだ出て行って数分しか経っていないと知らされ、近くの駅まで走るが、電車は出てしまう。それから、私はその箱(高級なカステラ)を彼に返そうとするのだが、なかなか再会ができない。

 それを端緒としながらも、大学で時間講師をする「私」の日常、時々勉強を教えている大家の娘との関係や、飲み屋の女将との話などが、長めの一文で描かれる。各章では一冊の本が引用され、エピソードと結び付けられもする。とはいえ、何か大きな出来事が起こるわけでもなく、日常は淡々と、小さな出来事とその解決、あるいは未解決を積み重ねながら過ぎていく。

 そのような中で、私は「待機」と「待つこと」の違いを思考する。「待機」がなにか具体的なものが来ること・起こることを待つ態度であるのに対して、「待つこと」とは、具体的な対象もなにもなく「待つ」だけだ。私は後者にかかるエネルギーを思い、また、「待機」がそれに比べて楽なものであることを思わずにはいられない。

 「日常を書く」というのは、個々の完結するエピソードを積み重ねるような、いわゆる「日常系」的なものではなく、かと言って、生活の中で起きた小さな事件の顛末を書くことでもない。「待機」とその待ったものの到来、あるいはそれが訪れないことの累積を描くことなのである。なにかをなにかの「伏線」や「比喩」として、全体へと奉仕させるのではなく、待機と到来は個々に生起し、緩やかにつながるときもあれば、到来なくひたすら待機だけが滞留することもある。

 そのようなサイクルの中に、不意に「待つこと」を思う瞬間が、つまり、「待機」たちによって覆われた日常にポッカリと、隙間が生まれる。ただ「待つこと」、「「何か」を待つこと」ではない、言ってみれば純粋な、目的無き「待機」への意思。しかし、それは現実には不可能であろうから、意思としてのみ、思惟の対象としてのみ不意に訪れる。

 「待つこと」それは「待機」の根源なのかもしれない。「「何か」を待つこと」としての「待機」とは、常に未来を先取りすることだが、言い換えるならば、未来とは、「待機」によって初めて可能になる時間なのだ。そして、何かを待つためには、まず、「待つこと」がなければならない。この構造はパラドキシカルである。「待つこと」を思考するにどうしても「待機」を経由しなければならないが、「待機」は「待つこと」によって初めて可能となる。

 純粋な「待つこと」などできなしない。そもそもそれは語義的に矛盾している。しかし、それがなければ「待機」もそもそもない。これは純粋な欲望と、具体的な欲望の関係でも有るだろう。「何か」を欲すること、それは未来において「何か」を手に入れたいということだろうが、しかし、ではそもそもその元となる「欲するということ」はどのようなものかは、結局、「何かを欲望する」からしか思考することができない。これに対して、純粋な欲望を「欲望することを欲望する」ことだ、というのは誤魔化しだろう。この云いには、デカルトのコギトと同様の問題がとりついているだろうから。

 例えば、バートルビーが漂っているのは、「待機」と「待つこと」の中間地帯だろう。「できればせずに済ませたいのですが」は、「待機」たちの創りだす日常に不穏なものをもたらすが、かと言って全く純粋な「待つこと」でもない。彼は別に「待って」もいないのだから。ただ、待機→到来or非到来という「届いた」「届かない」といういずれかによって綺麗に解決する条理的な空間に、滞留するデッドレターたちを密やかに告げる。いつか届くかも知れない、届かないかも知れない、そもそもすべての出された手紙など、誰も把握していないのだから、だれが、すべてを「届いた」「届かない」に分類できるだろうか。そもそも、自分が誰に手紙を出したかを、すべて覚えているだろうか? どこかに、もうすでに忘れてしまった手紙たちが、漂っているかもしれない可能性を否定できるだろうか? あるいは、忘れてしまった「待機」たちが無いと言えるだろうか?

 ここから時間への問いが開かれる。「待機」の思想は、原因と結果を結びつけ、その間の時間をそれらに従属させる。結果を待つための時間なのだ。「待つこと」はそうではない。それは原因もなく、結果もない。純粋な時間でしか無いのだから(むしろ、もはやそれは時間とは言えないかも知れないが)。「待機」の中で、「待つこと」を考えることは、到来の時間を思うこと、そこに時間=距離があるということを考えることだ。

 小説という、読み始めと読み終わりがあるスタイルにおいて、そのスタイルの宿命を引き受けながらも、それを考えること。小説のラスト、一瞬が永遠に引き伸ばされる美しい瞬間は、その思考の結晶であるがゆえかもしれない。


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