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殺された私の自我

自我を愛せない。湧き上がる自我を流れるように抑え込む。そうでなければ生きていけなかった。

自我は、私にとっていらないものだった。邪魔だった。
嫌でも誰かに影響を与えてしまうものだから。
そして誰かに拒絶され続けると、自分の存在までも否定された感覚に陥る、危うさを孕んでいるから。


私の自我なんて、誰にも必要とされていなかった。いや、もしかしたら必要とされていたのかもしれないけど、私には伝わらなかった。ずっと拒絶されていたように感じた。1回ではない、何回も拒絶されたように感じる。

今度こそ、今度こそ、きっと、わかって貰えるかな

そうやって希望に目を向けることでなんとか生き延びた。でも、その度に裏切られた。このままいくと死んでしまいそうだった。だから期待することをやめた。自我を出すことをやめた。

誰かのお目に叶う自我、余計な自我、その判別が上手になった。無難に生きるのが上手だった。気づいたら余計な自我を殺すことも朝飯前になった。

殺し方を知らなかった頃のことはもう覚えていない。
だけど殺しすぎると胃炎になるみたいだから、胃が弱くなり始めた小学校1年生くらいからだったのかもしれない。



実際、自我なんて出さなくても生きていけるものなのだ。当たり障りない、害のない人間として交友関係を育めるし。正直利点が多かった。
ただ、誰かの中に強烈な印象と記憶を残すことが出来ないという一点を除いては。


誰の特別にもなれない。いい人。話しやすい人。

私はこんなに必死で自我を抑え込んで必死に誰かに有益であり続け、認めて貰おうとしているのに、なんでワガママで自由奔放に振る舞う奴らばかりが誰かの特別になっていって。意味がわからなかった。


賢い私はそこで悟った。
ああ、世間に求められるのはそういう人間なんだな、と。
平々凡々に、平穏に、自分の自我をのびのびと受け止めてもらえる環境に、ぬるま湯で生きてこれた人間にしか開かれない世界なんだと。
私なんてお門違いだったみたいだ。



自我の上手な伝え方を形成する前に、"自我の上手な抑え込み方"を学んでしまった私。自我を守る方法は、抑え込むことしか知らなかった。隠すことでしか、私は守れなかった。


だからね、今でも難しい。
誰かのためになる自我、いやこれはほとんど思考なのかもしれないけど。それしか外に出せない。
誰かにとって、得になるか無かの自我しか出せない。あとは別に最悪私でなんとか出来る自我。
それ以外の自我なんて誰かにとって必要とされる気がしない。迷惑以外の何者でもないと思ってしまう。

欲に近い、自我。それをずっと抑圧してきたから
それを出すことが難しい。

私の欲を叶えて貰うこと、受け止めてもらうことにとてつもない申し訳なさを感じる。同時に受け止められるはずが無いとも。

それと同じくらい、受け止めて貰うことを望んでいる自分もいるのは知っているけれど。

ごめんね、私は怖くてまだ出せそうにないよ。
無難なことを自分の心に嘘ついて、口からでまかせばかり吐いてしまうだろう。


嫌でも嫌とは言えず、「わかった」と言ってしまうし
思ったこと、私の欲は怖くて言えないだろう

好き、付き合いたい、会いたい、帰りたくない




言えないこと、分かっていてあげるから
その悲しみと寂しさ、ちゃんと抱えていてあげるから
いつか、言える日がくるまで。

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