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ここだけは、何者にもなりたくない

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ここだけは、何者にもなりたくない

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私なりの自己肯定感

最近何となく、人と接する機会は沢山あるのにいつも距離があるように感じていた。1枚壁があるような、会話してるはずなのに第三者視点、高みの見物感があるというか。 心の繋がりが感じられなかった。 人との会話を心から楽しめない自分がいた。 傍から見たらただスカしてる奴だったと思う。 一緒にいたい気持ちはあった。一緒にいて楽しかったし楽だったし、面白かった。いたい気持ちはあるけれど、なんとなく作業というか義務感みたいなものも少しあったような。 高校までは、友達と心が動くコミュニケ

    • 自分の幸せと他人の幸せと

      8/15 ずっとずっと、一人暮らしのお家に帰りたかった。帰省2日目からずっと願っていた。 でも、帰らなかったのは「両親(特に母親)が悲しむから」「長期休みは帰省しないといけないものだ」という洗脳が凄く凄く強かったから。2日目以降は一人暮らしの家に帰りたくて泣いていた。 お母さんは私の一人暮らしを凄く悲しんだ。 一人暮らしが始まってから、私に注いでいた愛を代わりに、と言って大量の植物を育て始めた。 家族からは「お姉ちゃんが帰ってこないせいだよ〜」と言われた。私は必死に取り

      • 自分を偽り、隠すこと

        友人に会いたいと思えなくなった。 友人の多くと一緒にいると、1人の時よりも孤独を強く強く感じてしまう。 会いたいと思えなくなった自分に、嗚咽感と嫌悪感を感じずにはいられない。 去年の夏は真っ黒だったカレンダーは今では真っ白。そんな対比で苦しんでいる私は、友人との予定を自分の心の拠り所として依存していたのかもしれない。 そしてきっと、私は"友人と仲良く過ごしている自分"に酔っていたのだろう。そんな自分を自分の心の安心材料として、「まだ、大丈夫。だから、私は大丈夫。」そう言

        • 理由のない涙があってもいい

          恋人は飲み会に行っていた。 夜遅くに誤字まみれのLINEが来る時、大抵彼は泥酔している。「あぁ、また酔い過ぎたのね」と思う。飲み会の帰りは、いつも「電車が来るのが遅い」という理由で歩いて帰って来る。それは彼の口実な事も、何となく察していた。 「だって、電車じゃ電話できない、声聞きたかった」 そっか、と強がってみたけど、下唇を噛み締め口角がふっと上がってしまったことは彼には秘密にしておこう。 「今日も一緒に寝たい」 そう言われて、私は強がり「でも酒臭いもんね〜」と素直

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        私なりの自己肯定感

          殺された私の自我

          自我を愛せない。湧き上がる自我を流れるように抑え込む。そうでなければ生きていけなかった。 自我は、私にとっていらないものだった。邪魔だった。 嫌でも誰かに影響を与えてしまうものだから。 そして誰かに拒絶され続けると、自分の存在までも否定された感覚に陥る、危うさを孕んでいるから。 私の自我なんて、誰にも必要とされていなかった。いや、もしかしたら必要とされていたのかもしれないけど、私には伝わらなかった。ずっと拒絶されていたように感じた。1回ではない、何回も拒絶されたように感じ

          殺された私の自我

          立ち止まれない私を馬鹿と言って

          走って、走って、思うがままに走り続けて、ふと立ち止まった。 走り続けた私の足と、体は、とっくに限界だったのかもしれない。 「思いつくままに動ける今が幸せなのよ」と言い聞かせて走り続けていたが、ふと我に返ると自分は今どこにいるのか、わからなかった。何のために走っていたのかも、この先ずっと走り続けていいのかも、分からなかった。 未来を考えることは愚かだ。今の連続である人生を、未来に馳せる時間があるのなら、今を磨く努力、今を最高潮に楽しくさせる努力をするべきだ。 そんな信念を元

          立ち止まれない私を馬鹿と言って

          明日死ぬかのように

          やりたいことをやろうと決めた。したいようにしようと決めた。 世間の目、人の意見、そんな曖昧なものに雁字搦めになって生きていた私。自分の感情、感覚よりも、外側の曖昧なものを信じていた。所謂他人軸というやつ、なのかな。 感情を素直に感じるのが怖かった。 こんなこと思っていいの?こんなこと思う人はいけないと、いい人だったらこう思うはずと、誰かが言っていたから。 感覚を信じて行動するのが怖かった。 こんなことしていいの?成功するためにはこれはしてはいけなくて、代わりにこうしなき

          明日死ぬかのように

          そのままでいいんだよ

          人は感情の共有をしなくても、コミュニケーションをとることは可能なのだと知った。 しかしそれはきっとうわべの繋がりであり、それでは真に心で繋がり合うことは出来ないということも同時に思い知らされた。心を閉ざしたコミュニケーションだから。 何を考えているのか分からないと思われてしまうだとか、本当の意味で人から好かれないだとか、怖いと思われてしまうことに繋がるのだと思う。 私はその人らしさが掴めない人、心を閉ざした人には近づきづらいというか、どう接したらいいのか分からなくて関わる

          そのままでいいんだよ

          底なしの向上心は自己否定の賜物だった

          完璧になったら、愛されると思った。 劣ってるところが無くなれば、愛されると思った。 私が私だからいけないんだと、私がもっと人から評価される素晴らしい人間になればいいんだと。 だから沢山努力した、"私"の欲望や感情を抑圧して、世間的に評価されている人たちの真似をした。愛されている人たちの真似をした。 向上心が、私の命の手網だった。手が血だらけになろうとも、その手綱を手放すことは出来なかった。 完璧になったら愛されると思えば、現実を見なくて済むから。 愛されてない現実を。大

          底なしの向上心は自己否定の賜物だった

          綺麗に見えなくても愛してよ

          今の私のままで果たして愛されるのか、もっと優れないと愛される価値がないのでは?もっと愛しやすい女に、愛し甲斐のある女に、人間に、なる必要があるのでは無いか? その気持ちと裏腹に、ありのままを愛してと叫ぶ自分もいて、けれど私はその声を無視して愛しやすそうな自分を演じるから矛盾と歪みが起きて、私の心は限界までひずんでしまった。 私は壊れた。 ありのままを許せない自分とありのままを愛して欲しい自分の矛盾は、あまりにも私には負荷が大きすぎる。 誰かに愛されたら解決する問題では無

          綺麗に見えなくても愛してよ

          余すこと無く愛を

          かつての私は傍にある目に見えない愛を沢山取りこぼしていることに気づかず、「もっともっと」とずっと愛に飢えていた 今は自分というものを取り戻して、自分の心地良さを追求し続けた結果、愛は私の傍にずっとあって、私が私として生きれているのは紛れもなくその愛のおかげだったと気づけた かつての欠乏感が嘘のように、今は沢山の人の沢山の種類の愛に満たされて生きている、そう胸を張って言えるようになった 沢山の人の愛に気づける審美眼は、今の私にとって大きな宝物になった だからもう、私、愛を求

          余すこと無く愛を

          縁の切れ目

          これまで自分を大切に出来ていなかった私は、傷つくこと辛いことを"からかい"であると認識して軽く流すことで自分を守った。 これくらい仕方ない、こんな私だもの。あとは本気で悲しんだり落ち込んで「それくらいで泣くなよ」と言われた過去も大いに影響しているかもしれない。 私は、その時"傷つくこと悲しむこと落ち込むことを表に出してはいけない、それが誰かを困らせてしまう"と学んだ。だから本気にした自分が悪いし、なるべくなるべく軽く自分の気持ちを扱うようになったと思う。 そして作り笑いが増

          縁の切れ目

          誰かに分かって貰えなくてもいいって思えたのは

          そもそも自分が自分だから悪いんだって思考だったから、自分の価値観なんて全部信じられなかったし、全部まっさらにして全部抑圧して成功者が言う価値観をインストールしてしまえば私の人生が変わるって本気で思ってた 私が誰かに分かってもらわなくてもいいって思えるようになってきたのは、「誰かは私を変えてくれない」という現実を味わったからだったかもしれない 人生の正解は、この世界にいる人間の数だけ存在する 今まで、私はこう考えるけど本当に正しいんだろうか?周りにそんな人がいないとさらに

          誰かに分かって貰えなくてもいいって思えたのは

          綺麗事では終わらせたくない

          終わり良ければ全て良し、なんて言葉もあるけれど 私にはまだ少し良さが分かっていない。 例えば何かのプロジェクトで、途中で色んな大変なトラブルが続発して本当に苦労したけれどちゃんと成功してよかった。終わり良ければ全て良しだね。 こういうのは分かる。本当にそうだと思うし、私も何度も同じ経験をしたことがあるから。 その当人が「この辛かった経験は私のためになった、よかった。」って言えた時にその言葉をかけるのはいいことだと思うの。 だけど、まだまだ辛くて渦中にいる人に、「その経験

          綺麗事では終わらせたくない

          私は私であればいい

          心のつながりが無くても人とある程度仲良くなるのが上手に見えたのは、他人の行動を見てただ真似していただけだからなんだと思う。 今思えばそれを的確に表していたのが後輩からの「先輩は友達止まりになる人」という言葉。 ばれていたんだな、実は心を閉ざしていたこと。 コミュ力が高くてフレンドリーな人に憧れていたから(というか人見知りの自分を全否定していたから)、自分を押し殺して他人の真似をしてたらそれっぽいことが出来てしまったに過ぎない。 仲いい人は多かったけれど、誰のことも信じてい

          私は私であればいい

          正解は自分で出すから、ただ聞いて欲しいんだ

          1年ぶりに集まった高校の小さい同窓会、隣で煙草を吸い始めててなんか少し悲しかった。 私は煙草が嫌いなんじゃなくて、 喫煙の居酒屋だからって、やめて欲しいって直接言っていいか分からないから分かりやすく嫌な顔してる友達の傍で、普通に吸い始めちゃうようなモラルのない人間が煙草を吸うことが嫌いだと思うタイプの人間だったらしい。 大学で自分と似たような人が集まるコミュニティだけで息をしていると、なんとなく世間は自分と似たような存在だけで出来上がっているんだと勘違いしてしまうんだと気

          正解は自分で出すから、ただ聞いて欲しいんだ