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【短編小説】今日、この街のバーカウンターで #恵比寿

 ふと、思いつかなくても良いタイミング、たとえば食事中、単調な作業中、出なくても良い会議出ている時、あの人は、と想い出すことがある。学生時代の友人、バイト仲間、会社の同僚、仲がよかった取引先、付き合っていた女性。そう想ったら思わぬ形でその人から連絡がきたり、その人の近況を知れたりする。会いたいと思う時には連絡はないのに、熱が収まった頃に連絡がくる。つくづくタイミングが悪いと、大野尚哉は思う。

 尚哉は待ち合わせの15分前に家を出た。新茶屋坂通り沿いを恵比寿駅方面に向かって歩く。まもなく桜が咲くというのに暖かさはまだ感じない。今日は代官山の合コンで知り合った優花と二度目のデートだ。彼女は今月の25日が誕生日らしい。少し日は早いがお祝いさせてと連絡し、ランチから夜までの約束をした。少し天然なところはあるが、ハーフを思わせる彫りの深い見た目は尚哉のタイプだった。おそらく目黒川沿いを歩きながら告白して付き合うことになるのだろう。
 
 予約したナポリの伝統あるピッツェリアの日本一号店の前で優花は待っていた。お待たせ、入ろっかとドアを開け、明るい接客で席に案内される。ランチタイムは満席だ。モレッティとマルゲリータ、有頭エビのフリット、トリュフソースの牛肉のフリットを味わいながら、仕事の話や過去の誕生日の話をした。1時間ほどで食事がひと段落した時、店内の電灯が落ちた。誰か誕生日なのかなと優花が言う。こういうサプライズが苦手な尚哉はありもしないが自分だったらと想像し、恥ずかしくなった。
 
 歌詞はわからないが英語のセレモニーソングが流れた。周りの視線が入口に集まってるのを見て、視線を追うと、さっきまでホールを動き回っていた女性店員がお腹の前で両手組みながら、歌っていた。吹き抜けのある店内に美しい声が響く。誰もが食事を止めた。別のスタッフが家族連れのテーブルにケーキ持っていく。渡された女性は涙目で喜ぶ。歌声が止むと待っていたかのように店内は拍手に包まれた。思わず尚哉も優花も拍手した。こういうの素敵だね、私もサプライズが好きで…と優花は話しかけてくれていたが、尚哉は上の空だった。
 
 あのシンガーは大野遥だ。そう確信していた。最近ふと近況が気になった、ホテル配膳会のバイト仲間。何かあるわけでもないが、同い年で同じ苗字だからと下の名前で呼び合っていた女性。当時は夜会巻をしていてわからなかったが、ケアされている綺麗な茶髪とくっきりした目元とこめかみのほくろ、そしてその声で思い出した。通路奥の客が立ち上がるわずかな時間、彼女と目が合った。

 尚哉はその後のデートでも大野遥の存在を頭から離すことができなかった。会話は相槌が多くなったし、優花から好意を寄せられる発言があったことは理解しながらも曖昧に答えてしまった。中目黒で鮨を味わった後、駅で解散した。鮨おにかいから駅に向かう中で意味有り気な沈黙が続いたが、直哉は彼女が欲しいであろう言葉を口に出せなかった。次はないだろうな。直哉はため息をついた。タイミングが悪すぎる。
 
 目黒川沿い歩きながら、大野遥のLINEを探す。ステージドレス纏った、後ろ姿のアイコン。直哉は迷わず連絡した。
“久しぶり。人違いだったら申し訳ないんだけど、恵比寿のミケーレで働いてる?“
目黒川と新茶屋坂通りが交わるところでスマホが震えた。
“久しぶり!10年ぶりくらいかな。そうだよ!もしかして今日、ランチの時間にいた?“
“人違いじゃなくてよかった!うん、誕生日サプライズ歌っての聴いてさ、もしかしてと思って“
“え、なんか恥ずかしいんだけど笑 やっぱりか~。知り合いが聞いてるならもっとしっかり歌えばよかったなって思ってる笑“
10年ぶりの友人と連絡は高揚感に包まれていた。目があった時からそうでなるかのように、2人は会う約束をした。

    お待たせ。
 10分前に到着した尚哉に遥は声をかけた。黒のハイネックニット、白のプリーツスカートにショートブーツ。ケアされた髪を下ろしているのは初めて見た。思わず綺麗だね、と言いそうになりながら平然を装う。恵比寿駅西口で合流した2人は416号線を中目黒方面に向かって歩く。遥のリクエストは焼き鳥だったので、いぐちに行くことにした。入り口がわかりづらいビルの5Fは別世界だ。促され、一枚板のカウンターの一番奥に座る。直哉はエビスを頼んだ。遥はメニューを見ながら少し逡巡した後、私も、とエビスをオーダーした。

「いつもは喉のケアでお酒は飲まないんだけどね…今日くらいはいいかなって」「そっか。無理せずに」泡と液体が綺麗なバランスで注がれたうすはりグラスを小さく合わせた。
    よくよく考えれば彼女のことを何も知らない。バイトの飲み会だって、彼女は常温の烏龍茶を頼み、人の話を頷きながら聞き、21時には帰っていた。ただ、ピンとした姿勢とハキハキと綺麗な声でゲストに接する姿は尚哉の記憶に残っていた。恥ずかしさもありながら、互いの生い立ちを知らなかった2人は改めて自己紹介から話し始めた。出身地、大学、今の住まいは、仕事は、どうして配膳会を、今の趣味は、休日は何を。取り留めのない会話が心地よかった。

 遥は東京藝大の声楽科に通いながらバイトをしていたと言った。実家は秋田県では有名な一族経営企業の1人娘でバイトを必要はなかったが、社会を知らないのもね、と社会勉強のためにやっていたらしかった。
「尚哉は今はなんの仕事をしているの?」呼び捨てしてくれる、10年前と変わらない距離感が心地よい。
「今は製薬会社で市場マーケをやってるよ」
「製薬って激務で高級取りじゃないの。すごいね。でも確か、あの頃はラジオ番組のディレクターになる、みたいなこと言ってなかったっけ」
遥の発言で忘れかけていた後悔を思い出す。そう、大学時代はラジオ番組のディレクターになりたかったのだ。

 尚哉は渋川市で育った。小学生の頃に少年野球クラブに所属し、高校まで野球に没頭していた。県大会ベスト4で終わった尚哉はダラダラと受験勉強をするようになる。勉強のそばにはラジオを流していた。印象に残っているのは土曜日の夕方、麻布十番にあるイタリアンレストランのウェイティングバーの設定で、ゲストの話に聞き耳を立てる番組。 

 群馬の豊かな自然と低いビル、21時には暗くなる街。駅から10分も車を走らせれば自然が広がる風景で育ってきた尚哉にとって番組で繰り広げられる「東京」は尚哉に新しい目標を持たせた。東京に行きたい。バーというものに行ってみたい。尚哉は猛勉強の末、慶應に合格した。大学は夢も目標も忘れ遊びに遊んだ。夢や目標なんてそんなものだ。遊ぶ金欲しさに時給の高い配膳会を選び、そこで遥と出会った。

「懐かしい。そうだね。田舎の若者が聞いて、東京に憧れを持つようなラジオ番組を作りたかったんだけどさ、就活の時に色々悩んで、才能もないし、給料も安かったからさ、当時面白そうな業界と会社を選んだ」

あの時の選択に後悔はしていない。必死に10年努力をしたことで、恵比寿に住まい、ある程度の欲しいものは値札を気にせず買える。女が行きたいという店には行けるし、欲しいものは記念日じゃなくても買える。ただ、本当に才能がなかったかはわからない。挑戦する前に選択肢から外したというのが正しかった。自分の才能が評価されることから逃げたのかもしれない。

「そうなんだ。私と反対だね。」彼女は薄めの果実酒で口を潤す。
「私は小さい頃に親から強制的に声楽やらされてさ、お金と経験と、たまたま小さな才能の種があったから大学も行けたんだ」
遥はグラスを両手で温めるように手を重ねている。
「でもね、種は種で終わった。トップと自分を比べると、敵わないな、プロでお金なんて稼げないなって思ったんだ。だから就活も普通の会社も受けてさ、それなりの会社から内定をもらった」
「最初は自分の意志じゃなかったけど、ずっとやっていたからさ、なんか諦めきれなくて。ううん、心の底から敵わなかったって思って辞めたいなと思って。自分には才能がなかったんだって心の底からわかれば、素直に諦められるって。結局、就職もせず今のお店でアルバイトしながら、違うお店で歌ったり、オーディション受けたりな生活が10年。あの時決めたことにこだわりすぎているのかなぁ」遥は自虐的に笑った。

 尚哉は天秤を想像した。片方には夢、もう片方には金。バランスは取れない。いや、バランスをとってしまえば本当に叶えたかった、自分が求めていた名声や地位には辿り着けていないのだろう。自分が本当にやりたいで金を稼げることなんてない。相手が、会社が、社会が求めることと自分に折り合いをつける。それがこの社会で生き抜くことだ。

「負け犬みたいなこというけど実力じゃなくて、タイミングってあるよね。あのオーディションに出ていれば、とか、あのディレクターと仲良くなっていればって。友達はディレクターさんたちとのお食事会に行ったりして、チャンスを掴んだんだよね。もちろん、実力もあったけど。でもそういうの、なんか違う気がすると思って。その決断がだめだったのかなって。東京は真面目な人が損をする、ううん、不器用な人は成功できないんだね」

 彼女は2口残っていたウーロンハイを飲み干し、テーブルに戻す。コツンと控えめな音した。沈黙に合わせるように、次のオーダーをとりにくるのが有り難かった。

 コースのご飯である3口サイズの親子丼を食べ終わったころ、遥は、言った。「私、実家に帰るの」
10年ぶり出会った遥との再会は、今日で最後になる。
「だから、もういっかと思って。何年ぶりかな、お酒飲んだの。やっぱ美味しいね。」
時計を見れば、まだ21時にもなっていない。遥はもう大学生じゃない。尚哉は遥に伝えたい、聞きたいことが頭の中で飛び交っていた。
「ハイスペ男子の尚哉くん、私、久しぶりにシャンパン飲んでみたいな」遥から初めて聴く猫撫で声だった。
 それまでの雰囲気が炭酸の泡のように消える。彼女なりの配慮に笑ってしまい、2人は店を出た。

 その店は416号を少し歩いて、路地に入った地下の人目につかないところにある。看板は出ていない。先輩から教えてもらったそこは、尚哉にとって小さなお祝いをする時に必ず行くご褒美のような店だった。

「さすが、いろんなお店を知ってるね」美味しい。遥はブラン・ド・ブランを飲みながら目尻を下げた。
「さっきの話、いつ実家に帰るの」
「キリよく今月末にマンションを退去するから、立ち会い終わったらそのまま新幹線で」大きく人生が変わるかもしれない決断を事務連絡のように話す。
「なんで実家に帰るの、って思ったでしょ」

「別に親から帰ってこいなんて言われてない。でも自分が負けた、と思う前に才能が尽きちゃったなって。暗い海の中で上がろうとも上がれない。そんなイメージがあった」

「でもね、東京から地元に帰るって決めたら、負けたーって思えたんだ。私がこの10年間欲しかった感覚。オーディションで落ちるとか、私より才能ない人に負けるとか、そんなんじゃなかった。このステージから降りることを決めれば、いつだって負けられたんだ。」

「東京って、夢がたくさんある。それも手が届くんじゃないかって夢。オーディションに合格するのはもちろんだけど、レストランで隣の席に座っている人が実は私のオーディションを決める人だった、とか。さっきまでいた場所に会いたい人がいた、とか。もしかしたら電車で前に立っている人が運命の人だったとか、働いている店に10年前のバイト友達がきて、私の歌声を聞いてくれたとか。でも夢って、タイミングって掴もうと決めてないと砂のようにサラサラとこぼれ落ちる。私は夢に手が届かなかった」彼女は少しずつグラスを傾ける。

「実家に帰ってどうするの」

「やりたいことなんてない。32歳なんて田舎だったら遅れているほうだし、お見合い三昧じゃないかな。仕事は、そうね、音楽教室の先生でもやるわ」

 それでいいのか、なんて不躾な言葉を飲み込む。彼女だって考えて今の決断をしていると理解すればするほど心はゆっくりと締めつけられる。

 東京では夢より金を選んだほうが幸せになれる、夢を追いかけても一部の人間しか叶わない、なんて話じゃない。尚哉があの時、夢より金を選んだように、遥は金より夢を選んだだけの話だ。尚哉が遥だったこともあり得る。それでも、と尚哉は思う。

 今日、この街のバーカウンターで会話をできていることは、2人の選択の結果の帰結ではないか。尚哉は金を、遥は夢を。それぞれ決めたあの日の選択から、今日まで数えきれない苦労も、不幸も、悲しみも悔しさも、わずかな成功もあった。そのたびに物語を作り出してきた。あの選択でよかったと。もし、なんてない。タイミングが悪かったなんてことはない。非力な僕らにできることはその日と、今を繋いで幸せだと思えるかだ。それはいつだって遅くない。

 尚哉は遥に訊いた。

「東京は、幸せだった?」遥はグラスを見つめていた。息を吸い込み、
「うん。きっと、幸せだった」美しい声に涙が混じったような気がした。
「それなら、よかった」

 できないと思ってもできないわけじゃない。叶わないと思っても叶わないわけじゃない。生きていれば、いつだってチャンスは訪れる。尚哉も当然諦めたこともあるし、何かを叶えてきたわけじゃないが、こうやってお互いの物語を話し合える。それだけ人生は上々なんじゃないか。ただ、それだけを遥に伝えかった。

 遥は笑っていた。

 尚哉は世界で最も有名な、晴れの日に出されるシャンパンをオーダーした。2人がバイト時代に結婚式の乾杯用としてよくサーブしたシャンパン。グラスに金色の液体が注がれるのを見ながら、シャンパンの炭酸が弾ける音を妖精の拍手と呼ばれていたことを思い出した。

 今夜も東京のバーカウンターでは東京を去る者、競争ゲームに残り続ける者が酒を片手に夢と金について語るのだろう。どんな選択をしてもそこには正しいも間違いもない。できることは自分が今幸せである物語を紡ぐことだ。

 尚哉は妖精の拍手を聞きながら、遥の門出を祝う。遥も穏やかな微笑みでグラスを合わせる。

この選択がよかったかどうか、それは今はわからない。だからこそ。

 未来へ、進もう。



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