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時代が変わる瞬間。1453年の世界
「時代が変わった」というのは、後世の人からの評価によって定義されるものです。いまを生きる我々からすれば、もしかしたら今こそが時代の変わり目と評価されるのかもしれません。第四次AIブームにはそれだけの可能性が秘められています。
しかし、「歴史」の枠組みから見たとき、「時代が変わった」かどうかは国家同士の関係・あるいは世界の在り方がどう変化したかに依存します。
まぁ、これも古い見方なのかもしれませんが・・・現代史の捉え方は多様すぎて、いろんな切り口によって「変わったか」「変わってないか」の見方が大きく変化しそうです。
とはいえ、AIが世界の在り方を変えるかも、なんて言われたら、新たな時代の到来を考えざるを得ませんね。せっかくなので、明確に「時代が変わった」と思える出来事について、先人たちの歩みを振り返ったりしてみたいと思います。
※これは教師やってた時に書いた記事を一部リライトした内容です。
前史:14世紀とはどういう時代なのか?
1453年を語る前に、その前世紀の話にふれておきましょう。
「14世紀の危機」という言葉があります。まさしくこの時、世界史の転換点となる出来事が頻発しました。
14世紀に起こったこと
モンゴル帝国の支配が崩壊し、中国では明が成立した
日本では鎌倉幕府が滅亡し、朝廷が二分される南北朝時代が到来した
秩序が失われた東アジアで、倭寇と呼ばれる海賊が活発化した
朝鮮半島では、倭寇に襲われた高麗が衰退して李氏朝鮮が成立した
中央アジアではチャガタイ=ハン国が分裂し、ティムールが台頭した
西アジアではオスマン帝国がバルカン半島に勢力を伸ばした
ヨーロッパでは教皇権が失墜。教会大分裂が発生した
イギリスとフランスの王位継承争いから、百年戦争が始まった
フランス・イギリス・元(モンゴル帝国)での同時多発的農民反乱
黒死病の流行
大規模な地球の寒冷化。食べ物が生産できない
いろいろありすぎですね。各項目の解説は後日掲載します。(できたらね)
「戦乱」、「飢饉」、「分裂」、「疫病」、「交代」、これらが「14世紀」のキーワードです。
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では、これら「14世紀の危機」のあと、世界はどのように展開したのでしょうか?
百年戦争の終結
百年戦争についてはまた詳しく書きますね。
そもそもは毛織物産業の重要拠点だったフランドル地方をめぐる争いでしたが、イギリスとフランスの戦いは激しさを増すばかりです。しかし、フランスにとっての敵はイギリスだけではありませんでした。このとき、黒死病と呼ばれる疫病が流行っていたのですね。
フランス地域では黒死病の被害が大きく、戦乱と飢饉による社会不安が反乱を生みました。ジャックリーの乱です。
そのような状況下で、フランスに転機をもたらしたのがジャンヌ=ダルクでした。彼女が軍を率いて、破竹の勢いでイギリスを倒し、彼らを大陸部から追いやったのです。以後、イギリスは島国として歩みを進めていきます。
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「戦争が終わった」──
このことが当時の人々に与えた影響はどのようなものでしょうか。考えてみてください。100年間も戦乱のさなかにあったのです。戦乱の中に生まれ、戦乱の中に死んでいった人々が果たしてどれくらいいるでしょう?今より短い寿命の中で、いくつ世代が過ぎていったのでしょうか?
彼らにとっては、「イギリスとフランスは戦争をしている」ことが常識なのです。それが終わるということは、当時の常識を大きく覆す出来事だったといえるでしょう。
百年戦争の終結は何を生んだのか
ヨーロッパの社会は、「封建制度(Feudalism)」という独自の構造を持っていました。支配層となるのは主に軍人(諸侯・騎士)で、それぞれ各地の王に対し忠誠を誓う代わりに領地をさずかっていました。時に、仕えている者同士で忠誠を誓うこともありました。とにかく、軍人がバラバラに各地を支配するシステムだったのです。
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実質的には今の日本と変わらないですね(怒られる)
しかし、長期間の戦争は騎士たちを疲弊させました。さらに、特にフランスでは王が独自に軍隊を整備し、それを常備軍としました。王が所有する軍隊ができたことで、フランスでは「国王」の権力が著しく向上していきます。(反対に、世にあまねく騎士の皆さんは没落していきます)
なお、イギリスでは敗戦の憂き目に追い打ちをかけるように王室・周辺貴族の分裂が発生し、「バラ戦争」と呼ばれる内戦に発展しました。まぁ、百年も戦って得たものが敗北ってのはそりゃ荒れますよね。(百年ずっと戦ってたわけではないですけど)
百年戦争の終結は、支配層だった諸侯・騎士の没落を促した。
ビザンツ帝国の滅亡
ビザンツ帝国とは、「東ローマ帝国」のことを指します。かつて4世紀まで存在したローマ帝国を継承する国家ですが、7世紀ごろから公用語がギリシア語になるなど、ギリシア風の国家へと変化していきました。それ以前は「ローマ風(つまりイタリア風)」だったと言えます。
東ローマ帝国は、かつて母体のローマ帝国が330年に首都としたコンスタンティノープルに本拠を置きます。この場所は、紀元前にギリシア人が建設した植民市「ビザンテュオン(ラテン名はビザンティウム)」がもととなっています。ですから、「ギリシア風」の文化ができていったのです。だってギリシアに本拠地があるんですから。
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ともあれ、さかのぼればローマ帝国の後継者となるこの国は、15世紀時点でなんと1000年以上も存在していることになるのです。末期はすでに領土もほとんど残っておらず、首都コンスタンティノープルとバルカン半島のほんの少しの場所しか支配していませんでした。しかし、その歴史だけでものすごく権威のある国家だったのです。コンスタンティノープルは「永遠の都」とまで言われたほどです。
しかし、この「永遠の都」をもつ国は、1453年に突如として姿を消します。それは、ヨーロッパにとって仇敵ともいえるトルコ人によるものでした。
オスマン帝国の発展と停滞
トルコ人とは、歴史的にとても広い意味を持つ言葉です。もともと彼らは中央アジア北方、アルタイ山脈を本拠地にする遊牧民でしたが、長い時間をかけて西アジアへと移動を続けました。その間、イスラーム教を受容して王朝を作ることもしばしばありました。逆に、そのようなトルコ人に同化していく民族もいたりします。
オスマン帝国は、おそらく13世紀と14世紀の変わり目に成立したトルコ人国家です。トルコ人国家という系譜をたどると、セルジューク朝にさかのぼることができます。セルジューク朝といえば、かつてヨーロッパが十字軍を編成して戦った因縁の相手です。イラン系のホラズム=シャー国や、モンゴルの侵略により衰えたと思われた彼らが、再びこうしてヨーロッパを圧迫するのでした。
アナトリア半島に本拠を置いた彼らは、ビザンツ帝国を包囲するかのようにバルカン半島へと侵略を進めました。バルカン半島の都市であるアドリアノープルを支配すると、その町をトルコ風の名前であるエディルネに改めます。
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しかしながら、彼らは背後を突かれます。15世紀初頭、中央アジアで急速に勢力を拡大していたティムールが、東方から攻めてきたのです。これが1402年のアンカラの戦いです。このとき、オスマン帝国スルタンのバヤジット1世が捕虜として捕まってしまいます。オスマン帝国の歩みは、ここで50年ほどの遅れをとったといわれるほどです。
コンスタンティノープルの陥落
そして、およそ50年が経過。時は1453年。スルタンは新進気鋭の若きリーダー、メフメト2世です。彼はついに「永遠の都」コンスタンティノープルの攻略を始めました。この街の征服を狙った者は数知れず。しかし、東南北を河川・山脈で囲み、水路は封鎖され、堅牢な城壁に守られたこの街を攻略することはたやすくありません。なればこそ、ビザンツ帝国は1000年間もの存続を成し遂げてきたのです。
コンスタンティノープルは、ボスフォラス海峡から伸びた入江のそばにあります。ここを、「Golden Horn(金角湾)」といいます。当時、この入江の入口は長い鎖で封鎖され、通常時は通行ができないようになっていました。困ったメフメト2世は、秘策に出ます。
湾に入れないのなら、陸から入れればいいじゃないか。ウソみたいな話ですが、彼はやってのけました。軍船を運び入れて北の陸地を乗り越え、見事湾内に船を着水させたのです。有名な「オスマン艦隊の山越え」です。
かくして、これまでほぼ侵入を許さなかったビザンツ帝国は、因縁のトルコ人によって滅ぼされたのです。
ビザンツ帝国の滅亡は何を生んだのか?
「永遠」といわれた国が滅んだ。当時の人々にどれだけのインパクトがあったか、想像できるでしょうか?もはや国家としての勢力はないに等しい国でしたが、権威だけはありました。また、ビザンツ帝国は東方正教会(キリスト教の一派)の首長ともいえる国。北東ヨーロッパに広がっていた東方正教徒たちは何を思ったでしょうか?そして、滅ぼしたのは異教徒のトルコ人。おそらく、たくさんの人が恐怖に震えたことでしょう。
そして、ローマ帝国滅亡とともに古代が終わったように、ビザンツ帝国の滅亡が中世の終わりを象徴するのです。旧来の体制が外敵の侵入を契機に崩れていくさまは、まるでかつてのローマ帝国の末路を彷彿させますね。
それだけではありません。歴史ある「ローマ帝国」は、次なる国家へと継承されていきます。のちの1480年、240年にわたるモンゴル人支配から脱却したロシア地域では、現地民によるモスクワ大公国が強大化していきます。支配者である大公イヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪っ子であるソフィアと結婚していました。そのため、モスクワ大公国は次なる「ローマ帝国」を自認したのです。イタリアで興ったローマ帝国は、ギリシアに継承され、そしてロシアに受け継がれていったのです。
ビザンツ帝国滅亡はヨーロッパ全体の危機意識と新たなローマ帝国後継者を生んだ。
1453年に起こった「時代の変化」とは
西では百年戦争が終結し、東ではビザンツ帝国が滅んだ。当時の人々の中にあった「当たり前」が覆されたのがこの年だったといえるでしょう。ちなみに、実はこの年は歴史的にも珍しく、世界規模の異常気象によって「夏がなかった」一年と言われています。日本では飢饉が起こり、その14年後に応仁の乱が発生して戦国時代の前提ができました。ヨーロッパで新しい時代の幕開けを迎えたこととともに、象徴的な出来事だと思います。やっぱ気候変動が人類の歴史にもたらす影響は計り知れないですね。
百年戦争終結・ビザンツ帝国滅亡は、旧来の常識を崩して新しい時代到来の基礎を作った。
最後に
「時代が変わる」って何をもっていうのか、いまいちわからないですよね。でもおそらく、「常識が変わるような何かが起こった」ということが時代を分ける手がかりになるのかもしれません。
2022年から始まった第四次AIブーム、後世の人は「時代の変わり目」と評価するのでしょうか?一見関係ないように見えますが、ウクライナとロシアの戦争が長期化した場合、開戦~AIブームの時期を時代の切り替わりとみて、終戦までを一時代に数えてしまったりするんでしょうか。今後の世界動向にも目が離せませんね。