狩りガールの存在論的転回(後編)|民族誌を読む#4|Quiz
出題=前回の記事👇
問1の答え=③
国営農場で働いていた(働かされていた)ソ連時代に比べて、ソ連崩壊後は再び狩猟採集の比重が高まっていて、ユカギールのカロリー総摂取量の半分以上はエルクの肉だと著者が見積もるほど。でも狩人たちは、エルクが少なくなったのは「どこか他所に行っている」からと考える。
なぜか? 生命の総数は変わらないと彼らは思っているから。
次の引用は長いけど、そんな彼らの輪廻の世界観がよく現れているよ。
生命は失われずに循環すると考えるから、エルクはいまは別の姿をしているだけで、将来的には生まれ変わって戻ってくるって信じてる。無益な大量屠殺をしてしまうのは、狩りが破壊だけでなく再生の意味も持つからで、動物のアイビ(霊魂)が転生できるようにしているのさ。
それに、「入手可能なすべての動物を殺し損なうことは、みずからの未来の猟運を危機に晒す」(p65)と考えてるんだ。例えるなら「消費することで経済を回す」という言い分に近いと思うよ。
問2の答え=②
①はサルトル、②はメルロ=ポンティ、③はラカンの論考で、どれもこの本で検証されているよ。
メルロ=ポンティが言ってるのは、幼い子どもは自分と他者を区別する感覚を持たないから、託児所である子が泣いていると他の子にも伝染してしまう現象は、これで説明できるよねということ。幼児は「内部由来の感覚と外部由来の感覚を区別しない」(p115)とのこと。これがラカンの〈鏡像段階〉の議論へと遡り、身体/霊魂の弁証法をめぐるユカギールの観念と対比されていく。
ユカギールにとっての鏡は、アイビ=亡くなった親戚の影である点が興味深いね。「子どもは話せるようになるまで完全に生きていることにはならない」とユカギールは考えていて、生まれ変わりとされる親戚のアイビだととらえられているのさ。
それくらい言語を重視しているんだけど、一方で「聞いたことよりも経験したことこそ本当の知識」とされていて、親が子どもに教えるときは言葉ではっきりと指示をせず、子どもが自分で物事の意味を発見するように仕向けるんだ。ユカギール式教育法として、日本の教育界に波風立てたいね!
問3の答え=①
動物や樹木や河川は、動く・成長する・呼吸するという点で「私たちと同じような人々」(p128)と考えられているけど、石やスキーや食料は動かないゆえに、生きてはいるけど生命がないと分類されているよ。そして、こうした静的なモノは〈影のアイビ〉しか持っていないんだ。対して生命あるものは、〈心のアイビ〉と〈頭のアイビ〉も持っている。
人間も動物も人格を持つというのは、ユカギールに限らず周辺の北方狩猟民にも共通している。ただ、彼らがクマやウサギなど動物の種ごとに共通のアイデンティティ(支配霊)を持つと考えるのに対して、ユカギールは動物自体が人格だと考えているみたいなんだ。つまり個性を持つってこと。だから模倣(ミメーシス)という身体技法を用いて狩りをするのさ。
「人間と動物は、互いの身体を一時的に借りることで、別種のパースペクティヴに出入りすることができる」(p12)とも書かれてあるよ。
ユカギールの人間のカテゴリーには、われわれなら「超自然的存在」と考える精霊も含まれている。そいつらは人間や動物と同じ物理世界に存在するらしく、ときにそのことを実際に経験するんだって。
このような非人間の人格も動物も〈頭のアイビ〉を持っているから「考える」能力がある。ただし、異なる方法で考えていて、「それらは別々な種類の人間なのだ」(p142)と受け止められているんだ。
問4の答え=①
③はひっかけで、相手が誰であっても性交は控えられる。答えは①だ。むしろ積極的に勧められていて、人間のにおいを払い落とすことが期待される。
ユカギールは嗅覚に敏感で、においも人格の一部だと考えているんだ。子どもは人間のにおいが強い。匂いがセックスアピールになるし、動物たちもそれぞれの種に固有の臭いを持っている。だから、獲物の動きとにおいを模倣して狩りに挑む。
煙にはにおいを中和する効果がある。狩りが終わり、狩猟者が半ば獲物と同化した存在から人間に戻るために、狩りのベースキャンプの焚き火が重要な役割を果たすのさ。そう、完全にエルクに同化してしまって、銃を撃てなかったり戻ってこれなかったりってことも実際に起きてるんだな。
そしてこうも言ってる。「アバスィラルが獲物を探しているときは、いつもにおうんだ」。
アバスィラルはアバスィと同じ意味で「悪霊」ととらえられるが、すでにみたように、これらも人格を持つ存在だ。人間がエルクを狩るように、アバスィラルは人間を狩る。狩られた=アバスィラルにアイビを食べられた人間は、病気にかかって死んでしまう。人間が動物を食べるときも同様な因果があり、殺された動物は病気や災難をハンターに送りつける。
ここで多自然主義に通じる考え方が示される。多自然主義は多文化主義の逆張りで、「文化(精神)はひとつ、自然(身体)は多数」とする立場(乱暴だけど)。神も人間も精霊も動物も植物も同じように精神を持っているんだけど、身体が異なるから、身体に根ざしたパースペクティヴにも違いが生まれるという思考法なんだ。
ユカギールにとって、人間もエルクもアバスィも人格を持つという点では同じ存在で、違うのは身体だと考えられている。これは例えるなら、キャラクターショーかなにかで着ぐるみに入ることに似ていると思う。オオカミやアンパンマンやふなっしーの着ぐるみを着てそれぞれのキャラを演じる。でも、中にいるのは人間だ。人間という精神(文化)は同じだが、着るものが違うからそれぞれのキャラが分別される。
ユカギールはこう考えている――動物や精霊たちは森のどこかの自分たちの土地にいるときは、人間と同じ姿で、人間が住む家で暮らしている。その家には暖炉があって、暖炉の煙が、外から帰ってきた動物や精霊の姿をした者を人間に戻す、と。
これはメルヘンじゃないよ。ヴィヴェイロス・デ・カストロの「パースペクティヴィズム」の議論そのものなんだな。詳しくは本文p151あたりに書いてあるよ。
問5の答え=②
問4で、狩猟者が獲物と同化して人間の世界に戻れなくなることがあると書いたけど、この状況をもう少し詳しく説明しよう。
ユカギールの狩猟技法には、獲物に警戒されないように狩猟を連想させる言葉を使わずに言い換えを多用したり、火に酒やタバコをくべて動物の支配霊を誘惑したりなどもある。だけど基本は、獲物の動きとにおいを真似て、対象になりきることだと前述したよね。
でも、これは危険なことでもあるんだ。完全に動物の視点と同一化してしまうと、人間でなくなってしまうからね。だからあえて不完全な模倣を行う。それが「動物でなく、動物でなくもなく」というやり方なんだ。
そのためには、「獲物の動物に意識を向けるだけでなく、獲物に近づいている存在である彼自身にも意識を向ける」(p165)という二重のパースペクティヴが必要だ。これらが即座に交互に入れ替わるから、あたかも人間と動物が一体化しているかのような境地になるという。
設問に立ち戻ると、若き日の老人が何日もトナカイの群れを追っていたとき、ある奇妙なキャンプに招き入れられ、食べ物(といってもコケだったが)をもらい、一晩彼らと一緒に眠った。トナカイに囲まれている夢を見たが、「ここはお前のいる場所ではない」という声を聞き、テントからこっそり抜け出して家に帰ると、1ヵ月以上が過ぎていた、という不思議譚なんだ。人間性を喪失する一歩手前だったということさ。
ユカギールにとっての夢は、アイビが経験する現実だと考えられているよ。