オーセンティシティについての文章をズタボロに酷評してもらいました|Critique
昔書いたオーセンティシティ(文化の真正さ)についての文章を、OpenAIのChatGPT(無料版)に批評してもらいました。ただし、さまざまな観点から批判・酷評する試みです。ぬるま湯からは卒業です。
なお、『都市はなぜ魂を失ったか』を書いたシャロン・ズーキンの立場では有効な批評が得られませんでした。
被疑者となる文章
この現実(私とインフォーマントが経験している現実)とあの現実(インフォーマントだけが経験した現実)は、どちらが私の経験から遠いかという問いをたててみよう。答えはもちろん後者である。
けれどもすぐに、この問いは無意味であることに気づくだろう。インフォーマントだけが経験した現実というのは、彼が自分で民族誌を書かない限り表象されないからである。フィールドワークを介して、あの現実はこの現実に包摂されるのである。だからすべての語られる民族誌的事実には二重のリアリティがある。
「現地の視点」という架空を志向しながら、実際の記述では、民族誌的現実を説明し批評するような視点が存在した。これは民族誌の戦略的二枚舌である。状況によってどちらかの視点を強調し、読者に一定の「読み」を強要してきた。
インフォーマントによる民族誌はその矛盾を救うだろうか? 詳しくはそれぞれの著者の履歴を吟味しなくてはならないが、この理想には無理があると思う。なぜなら、書く行為は自己を客体化することを必然的に含んでいるからである。客観視を可能にするような超越的な視点がそこにあり、「表現は生を裏切る」ものなのだ。
だから結論される。真正さとは文化に対するものではなく、経験に対するものだ、と。そもそも解釈という行為は、解釈する者の自由意志によるものである。そこには正しい/間違っているの基準はない。解釈である限り、真偽の分類はできないのである。
けれども現実には、書かれた民族誌に対して現地の側からさまざまな異義が申し立てられている。「それは現地の現実に照らして間違っている」――この批判は的外れなのだろうか?
現地主義を看板にしてきた文化人類学は、そう言い切ることはできないはずだ。現地という対象は、書かれたものに対する批評性を内在している基準なのだから。ここにおいて人類学は、またもパラドックスに悩まされる。すなわち、「現地の言説は正しいが、その正しさは認識論的に根拠がない」。
人類学がまだ無邪気な子どもだった頃――それはまだ「未開な」文化や人々があまり「近代的な」人たちに知られていなかった頃だが――、人類学者の役割はその「未開さ」を人々に紹介することにあった。そこには見せ物的なもの珍しさとか、「近代」へのアンチテーゼといった目論見とかがあったかもしれない。その当時は、紹介される土地の人々は、民族誌の読者として予想されていなかった。オーセンティシティの基準は、「そのときそこにいた」人類学者の経験にしかなかったのである。
しかし、インフォーマント側の人々が発言しだしてからは、人類学者の言説までもが相対化されることになった。そしてこの状況の変化は、人類学の目的までも変貌させた。文化の記述そのものよりも、異なる文化を理解する過程にこそ人類学の意義はあるのだという論理のすり替えである。
かくして文化を語る際の力点は現地の人から人類学者に移行し、彼は表象されたものの「真正さ」に拘泥する必要はなくなった。肩の荷はおりたのだが、なんだか釈然としない雰囲気が残された。
批判や酷評
プロンプト:この文章を酷評してください。
プロンプト:あなたは大手広告代理店に勤めるベテランのマーケターです。オーセンティシティ・マーケティング(authenticity marketing)の観点から、この文章を批判的に検証してください。
プロンプト:(ChatGPT先生とのいくつかのやりとりのあとで、先生が推薦した)ピエール・ブルデューがこの文章を批判したら、という設定で、批評文を出力してください。