記述と解釈についての文章をクリフォード・ギアツに批評してもらいました|Critique
昔書いた人類学的記述についての文章を、OpenAIのChatGPT(無料版)に批評してもらいました。ただし、解釈人類学の提唱者であるアメリカの文化人類学者クリフォード・ギアツが批評するとしたら、という条件付きです。
結果は前回のP.L.バーガー編よりもしっくりきました。とくに条件文を変えたわけではないのですが、要約が説得的になった印象を持ちます。ギアツの視点での論評にはほど遠いですが… 「『文化の解釈学』を著したギアツ」などのように、具体的な情報を条件文に入れたほうがよかったみたいです。
最後に、ギアツをよく真似できていると褒めてもらいました。真似したわけではないのですが、ギアツの安っぽい焼き直しにみえたのでしょうね。
被疑者となる文章
人類学という萎れつつある学問にとって、少なくとも記述戦略に関して徹底的にあいまいになることが、生きのびるひとつの手だてであるような気にさせられる。というのも、言葉を厳密な意味で具体的に使うことは、そもそもかなわないからである。そうしているのは相互反照性である。例えば、「祈り」という言葉を流用させているのは、○月○日、○○という場所で、○○による、という具体性ではない。言葉にはすべてあいまいな記憶がつまっているものであり、そこから生まれる抽象性が言葉を成立させている。そうすると、記述とは引用なのかもしれない。
私は「~のための現在化である」と書きたくて、パソコンに入力した。ところが、パソコンは「~のための原罪化である」と変換してしまった。私はそれを読んで「なるほどそうかもしれない」と思ってそのまま印刷した。つまり、この文章は私とパソコンとの合作なのである。パソコンも解釈に参加しうる。私が言いたいのは、解釈というものが、いかに恣意的で、状況的で、可変的なものかである。
解釈という記述の戦略は、民族誌を小説の地位に置くと同時に、それと類別する意味を持つ。その差異を認識できないと民族誌家としては失格だが、それは思いのほかむずかしい。なぜなら、書かれるものとして民族誌記述を存在論的に支えている現実や事実が、ほかならぬ解釈のおかげで仮象化しているからである。両者の差は解釈のレベルの差と結論することは、むしろ墓穴だと思う。
エッセイは論文の対語ではないが、人類学においては実際にそのように機能している。論文やエッセイ以外に民族誌の記述があってもいいと思うが、詩や小説で書かれた民族誌を読むことはめったにないし、それが意識的に書かれることはさらに、といえる。
こういうふうに自分をさらけ出すことは、これまで人類学がしてきた他者の暴露への代償と意味で、ヤクザのオトシマエ的な解消の仕方である。けれども、畢竟その解消の仕方が、もっとも人間的だし、平等的だし、何より他者に対し説得的である。対話という概念もそういうものではないだろうか。
クリフォード・ギアツによる批評(仮想)
この文章は、人類学という学問における記述戦略と解釈の複雑な関係について深く掘り下げています。著者は、記述があいまいさの中に生きる一つの方法であると指摘し、言葉が厳密に具体的でないことが、相互反照性によって説明されていることを強調しています。この観点から、記述とは引用のようなものであるという洞察を提供しています。
さらに、著者はパソコンの変換ミスを通じて、解釈の恣意性と状況依存性を示唆しています。このエピソードは、解釈が言葉によって仮象化された現実や事実を形成することを強調し、解釈が現実の構築にどれだけ影響を与えるかを示しています。
この文章はまた、エッセイと論文、そして民族誌の記述との関係についても論じています。エッセイが論文とは異なる方法で機能している一方で、民族誌の記述は詩や小説の中で表現されることは少ないと指摘しています。この点について、人類学が他者を暴露する一方で、自己をさらけ出すことで対話の機会を生み出すという興味深い視点を提供しています。
最後に、この文章は人類学の対話という概念について言及し、他者とのコミュニケーションが解釈と記述の複雑な関係を解消する手段であると示唆しています。これにより、人間的で平等的なアプローチを強調し、他者との理解と協力に焦点を当てています。
全体として、この文章は人類学における記述戦略と解釈の問題について、洞察に富んだ議論を提供しています。クリフォード・ギアツのアプローチを模倣し、複雑なテーマを深く掘り下げています。
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