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赤の旅 and rock was my pillow |Essay

キャンプをするわけではないのだが、草原や雑木林や海岸の人気のない場所に吸い込まれるように誘われて、そこで何時間もボーッとすごすことがある。それも旅先でだ。一人の人間ではなく、一個の生に戻りたい欲求なのだと思う。

なかでも乾燥した土地を旅するとき、その思いに駆られることが多い。赤銅色の岩の上でぼんやり瞑想した「セットとセッティング」について思い出してみよう。この言葉で誤解されないよう、以下の出来事は薬物の影響下ではなかったことをお断りしておく。

エル・イエロ(El Hierro)

カナリア諸島の最も西にあるエル・イエロは火山活動で生まれた島で、切り立った絶壁の海岸や剥き出しの溶岩土壌があちこちに顔をのぞかせている。島の南側では岩石砂漠のような風景が広がり、その赤茶けた大地と青い空のコントラストが美しい。

岩や砂礫の地面にはところどころ腰の高さほどの低木が生えており、島ごと吹き飛ばすかのような強風から身を隠すことができた。その茂みのかげに寝そべり、濃藍の北大西洋を視界の端にとらえながら空を眺めた。その前に滞在していたグランカナリアでタイムリープものの映画を見ていたせいか、考えたのは量子力学的な仮想現実についてだった。

シュレディンガーの猫のように複数の現実が重ね合わされた状態、そこから導かれる分岐した多世界をこのとき実感することができた。集まってはちぎれを繰り返している雲を見ながら、ふとそういう天啓を得たのだ。いや映画を見ながらおぼろげにたどりついた境地を、無情の赤の空間にて追想したというべきか。

風以外の音がまったく聞こえない世界で、失意のエヴェレットが瞬間憑依したかのような感慨に包まれたひとときだった。

タフロウト(Tafraout)

モロッコ南部のこの町にはエッサウィラ〜アガディール経由で訪れた。海辺の湿気をおびた景観から次第に水分が蒸発していき、タフロウトに入ると独特な暖色系の色合いが目に飛び込んでくる。建物の壁は砂漠の色に染まっており、橙、赤、茶の色調が織りなす光景が広がっていた。風がサハラの香りを運んできた。

タフロウトは奇岩の町ともいわれる。バスだったか宿の車だったかに送られて、岩だらけの郊外をうろついた。屹立する赤い岩は、太陽の情熱に染まり幻想的で、風が吹くと岩自体が揺れているようにも感じた。

手頃な大きさの岩によじ登り、アナキン・スカイウォーカーの孤独について考えた(惑星タトゥイーンにどこか似ている気がしたので)。実はぼくは無類のアソーカ推しで、アソーカ・タノ追放の一件がアナキン闇落ちの原因だと思っている。こましゃくれて憎めないパダワンのアソーカがいなくなり、アナキンは過去の傷を再び感じ、内なる葛藤と戦わざるを得なくなった。

・・・アナキンもぼくも深い喪失感から永遠に逃れられないのか・・・と赤い岩に問うたのだが、岩は岩たちの物語を聞かせてはくれなかった。

バイーア・デ・ロス・アンヘレス(Bahía de Los Ángeles)

メキシコのバハ・カリフォルニア州をバスで南下する旅の途中、岩山や砂丘、サボテンの風景を飽きるほど見た。というより、壊れた8㍉映画のように同じような景色が延々と繰り返される。さすがに食傷気味になり、変化を求めて1号線から横道にそれた。そして行き着いた半島の東のどん詰まりがこの町だった。

白いサンドビーチが広がり、海洋生態系が多様で豊かなことで知られる。町が小さいぶん、自然の美しさと静寂さを楽しむことができる。周囲の植生の中心はハシラサボテンで、自らの影をしたがえて乾いた大地に根を張り、不屈の棘で空を切り裂いている。

舞台は整った。ここではカルロス・カスタネダによるドン・ファンの教えをなぞろう。実践するのは「力の歩行」だ。前を見ながらも目の焦点を合わさずに、前かがみで歩く。このとき手の指は軽く折り曲げる程度で、握りしめてはいけない。

(ドン・ファンによる修行が行われた)「ソノラ砂漠もきっとこんな風景だろうな」と思いながらあたりを歩き回り、軽く汗をかいたら岩の上に座って「しないこと」を試みる。完全に真似事なのだが、それでいい。人生はいつも何かのパロディだ。

夕暮れが近づいてきた。ぼくらはいま赤い永遠に取り囲まれている。やがて闇が訪れると、サボテンたちは沈黙の詩を朗読しはじめるだろう。

※文中の写真はネットから勝手にお借りしました。ありがとうございます。

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