私とnote㉖ 短歌初挑戦「短歌物語」~#青ブラ文学部
敬老の日に寄せて
母あてに、郵便物が届いた。
敬老の日には、毎年、自治体からお祝い金が届く。
今年は、現金以外に箱も同封されていた。
米寿のお祝いの品だ。
中には、よい香りの香を焚きしめた、扇子が入っていた。
いかにも母が喜びそうな逸品だ。
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父は、家の借金を完済してすぐ亡くなった。
それまで母は、自分のためにお金を使うことがほとんどなかったので、私たち姉妹は、母が何を好むのか、全然知らなった。
父が亡くなった時、母は、偶々旅行に行っていて死に目に会えなかった。
それを悔いて、1年間、旅行断ちをした。
しかし、その後、認知症を発症するまでの25年間、母は、堰を切ったように、やりたいことをやり、行きたいところに出かけた。
その一つとして、詩舞を嗜んでいた時期があった。
詩舞とは、詩吟に合わせて踊る、日本舞踊のようなものである。
最初は詩吟を習っていたのだが、生来の音感のなさはどうしようもなく、ほどなく詩舞に転向したのだった。
詩舞は、一曲の長さが適度であり、年をとってから習い始めるには適していたのだろう。
もともと和装が好きな人であったから、着付けを習いなおし、着物やら扇子やらを買い揃え、発表会なんぞにも出ていた。
そういえば、一時、組紐にもはまっていて、用具を一式揃え、たくさんの帯留めなどを編み上げていた。
思い返せば、母の凝り性は、皆、一時である。
始めて暫くは入れ込むが、ある程度極めると熱が冷めてしまうタイプだったのかもしれない。
詩舞も、いつの間にか辞めていた。
なぜ辞めてしまったのか、その時、特に聞かなかったので、今となっては真相はわからない。
その後は、毎年、地域のお祭りの夜、町会の皆さんと揃いの浴衣を着て、盆踊りに参加する程度の踊りは続けていた。
盆踊りには練習の会があって、それにも参加していた。
日付が被らない近隣の町会の盆踊りにも、賑やかしの踊り手として遠征していた。
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実家を片づけた時、着物がたくさん出てきた。
祖母の着物まで出てきた。
「着物、高く買い取ります」
という業者を頼んで見てもらったが、古い着物は、1円にもならなかった。
ただで持って行ってもらえるだけ御の字、という話だった。
だから、売るのは諦め、詩舞で使ったような華やかな色の着物、帯、扇子は三味線をやっている私の友人に譲った。
私たちが成人式や卒業式などで着た、比較的新しい着物や浴衣など、母の桐の箪笥に入る分だけ、残しておくことにした。
88歳を迎えられたことは、素晴らしい。
しかし、本人は、何もわかってはいない。
何を思い、どのような気持ちで日々を過ごしているかは、伺い知れない。
私たちにできることは、毎日清潔な服を着てもらって、髪を整え、身綺麗にし、気持ちよく過ごしてもらうこと、食事をおいしくいただけるようにすること、痛いつらい思いがないようにすること、
ぜひそうであってくれと、願うこと、だけ…。
母あての 米寿の扇子 佳き香にて
敬老の日は めでたし 哀し
(本文1200字)
今回の青ブラ文学部は、短歌と聞いて、私にはムリだと思っていた。
本来私は、自分の感情を、詩や、短歌、俳句で表現することが恥ずかしい。
だから、これまで、子供相手に、作るための指導はしてきたが、自分で作ることはなかった。
そこへ、自治体から母あてに米寿のお祝いに扇子が届いた。
これを記事にしようと思ったところで、短歌を思いついた。
最初に浮かんだのは、「嬉しや 哀しや」という言葉。
それでは字余りなので、「めでたし 哀し」に落ち着いた。
投稿する段になっても、やはり、恥ずかしい💦
拙作を、読んでいただき、ありがとうございました=^_^=
母の介護に関する記事は、コチラに ↓↓↓
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