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ホワイトな学校へ#49 寄り道⑬ 地元コミュニティでの子育ち


家のこと

#25寄り道⑤「子供たちは本当のお話が好き」や#32寄り道⑦「わすれられないおくりもの」に書いたように、父が生きていた頃は、何かとよく人が集まる家だった。
下宿をやっていたこともあるが、下宿をやめてからもずっとそんな感じだった。

そもそも、ウチは家族が多かった。
父を筆頭とする私たち一家の他に、父の弟とその妻、祖母。
そして、幼い頃には「じろうさん」という、話すことができない、祖母の遠い親戚まで住んでいた。
「話すことができない」と書いたのは、じろうさんは、今思えば、耳は聞こえていたのではないかと思われる節が多々あったからだ。
じろうさんは、いつも筆談用の紙を持っていたが、字の書けない私が普通に話しかけると、頷いたりしながら、にこにこと応じていたし、時々誰かと電話をしている様子もあった。といっても、相手が一方的に話しているのだが。
じろうさんと私は、仲良しだった。
筆談用の紙は、だいたい広告の裏を使っているが、たまにきれいな色の紙が手に入ると、じろうさんは私を呼んで、それをくれた。
私は、そのきれいな色の紙で折り紙をして、じろうさんにあげたりしていた。字が書けなくても話せなくても、私たちは、普通に言いたいことを伝えられていた。
ある日、じろうさんが家からいなくなった。亡くなったのだと思うが、私にその記憶はない。

私は、障がいのある方に対する偏見のようなものを全く持ち合わせていないと思うのだが、それは、この小さい頃の生活に起因するのではないかと思っている。


カラーテレビが来た!

我が家にカラーテレビが来た。私は1964年の東京オリンピックの年だと思っていたが、実際はそれよりも後だったようだ。
アポロ11号の月面着陸の頃かもしれない。
カラーテレビを見に、連日近所の人が集まっていた(と思う…)。
というのも、私の記憶に残っているのは、写真のような断片のみ。「三丁目の夕日」を見たとき、「これだ!」と思った。ここまで人数は多くなく、アングルは真逆。でも、こんな感じ。
2階の床の間に鎮座したカラーテレビの前に、近所の人がたくさん座っている。私はその後ろの二段ベッドのカーテンの隙間から、皆の楽しそうな様子を見ている…という図。



近所の子供たち

今のように遊ぶ約束をしなくても、学校から帰って外に出れば、誰彼となく集まってきて、集まったメンバーで遊ぶのが日常だった。
リーダー的な役割を果たしていたのが、私のにわとりを潰したことを教えてくれた、二つ上のWくん。近所の私たちの遊び仲間には、確かWくんと同じ年の子はいなくて、一つ下が数名、私と同じ年が数名、その下にも数名いたか。全員集合すると10人位だったと思う。
私の妹は、私より三つ下なので、一緒に遊ぶときは、いつも「おみそ」だった。「おみそ」とは、一緒に遊ぶが、各種ゲームの中で鬼にならない、アウトにならないなど、ハンデをもらえるのだ。
遊びは、「スポーツしよう」で述べたように、三角ベース。その他には、靴隠し、どろけい、缶けりなど。
探検ごっこ、鬼熊コーチごっこなど、変わったものもあった。

鬼熊コーチごっこは、当日流行っていた「アタックナンバーワン」というバレーボールのアニメに出てくる鬼コーチ。
そのまねをして、ボールをバンバン投げてみんなでレシーブをする…というだけの遊び(笑)。

探検ごっこは、いつもの遊び場所から少し離れた空き地に行ったり、入ったことのない家の隙間に入ったりする。
いつ、誰かに見つかって怒られるかもしれない…というスリルを味わう遊びである。
探検場所は、どこどこの空き地の木苺がそろそろ食べ頃だ、というような情報に基づき、行き先が決まる。
みんなで空き地(今思えば、絶対誰かの敷地!)に行って、オレンジ色のプチプチした甘酸っぱい実をよってたかって食べた。(50年以上前なので、もう時効ですか?)

三角ベースは、家の前の細い路地で、しかも長屋アパート塀の中に入ったら、すべてファールなので相当なコントロールを必要とした。
缶けりで、長屋アパートの裏の隙間に隠れ、ドクダミ臭くなってひどい目にあったこともある。


その、長屋アパート

いつも三角ベースをやっていた細い路地に面して、長屋のような大きなアパートが二棟あった。トイレと炊事場が共同で、廊下は土足のまま通れ、通り抜けて反対側に出ることができた。いつもの仲間の数名は、そこに住んでいて、格好の遊び場だった。
どろけいではその廊下を駆け抜け、缶けりではそのアパートの敷地のあちらこちらに隠れた。
毎日のようにものすごい勢いで子供が駆け抜けるのだから、住民はたまったもんじゃないと思うのだが、怒られた記憶も、立入禁止になった記憶も全くない。
子供は騒いで当たり前、元気よく走り回って当たり前という、寛大な、よき時代である。

家に対して、道が広すぎ…車一台がやっと通れるくらいの道幅です。
イメージだけつかんでください(^_^;)


おばあさんたち

長屋アパート以外にも、その路地に面した家の庭や家と家の隙間は、すべて缶けりなどの隠れ場所なっていた。
その一つが、長屋アパートの端の向かいにあったKさんの家の庭。
Kさんは、おばあさんで一人暮らしだった。
私たちが勝手に庭に入り込んで隠れていても、全然怒らなかった。
隠れていた子が逃げ際に植木鉢を壊したときはさすがに怒られたが、立入禁止にはならなかった。
それどころか、お芋を蒸かしたりすると、遊んでいる私たちを呼んで食べさせてくれた。

もう一人のおばあさんは、Wくんのおばあさん。
甲府の出身で、ほうとうが得意料理だった。
おばあさんのほうとうは、具だくさんでとても美味しい。
しかし、作るタイミングが、いつも突然だった(私は、そう感じていた)。
家にほうとうがとどいたら、それが何時であっても、すぐに食べなければならない。
一度、後で食べると言って、その時に食べなかったら、大変なことになったので、それからは、何をおいても食べることにしたのだ。(大変なこととは、ほうとうがすべての汁を吸い、小麦粉の固まりになっていたのだ!今のように電子レンジはなく、あったとしても、あの固まりは食べられないだろう…)


母もまた、そのお仲間だった

話は現在に戻るが、母の介護で実家に戻ってきたことで、お隣のMさんと、ちょいちょい言葉を交わすようになった。Mさんは私よりは年がだいぶ上なので、例の遊び仲間には入っていなかった。
顔を合わせたときに、挨拶程度の会話だが、話題は専ら母のことだ。
元気にしてる?とか、そんな感じの話の中で、
「おばちゃん(母のこと)のおはぎ、おいしかったよね。もう食べられないの、残念だね。」
と言われた。

母は、お彼岸には必ず、たくさんあんこを煮て、餅米を蒸かし、たくさんのおはぎを作った。きなこ味、ゴマ味も作った。
おはぎ作りを手伝い、お皿に乗せてご近所に届けることが、私たち子供の仕事だった。
毎回つまみ食いが山ほどできるのが楽しみで、作り終わる頃はいつもお腹一杯だった…(つまみ食いというか、作りながらどんどん食べてしまうのだが、全然叱られなかった!)

お隣のMさんが言っていたのは、このおはぎのこと。
母は、最初の骨折で入院する直前まで、このおはぎを作り、ご近所に届けていたのだ。
食べられなくなる日の備え(作り方のコツを聞くとか…)をしておかなかったことが悔やまれる。


子育ち

このように、私たちは、地域の皆さんに温かく包まれてきた。
地域の皆さんは、私たちを育てようなんて考えではなく、それぞれの思いで、好きなときに好きなように関わっていた、または関わらなかったのだと思う。
そのような環境から、私たちは自然といろいろな価値観に触れ、勝手に学びとり、育ってきたのだ。

この遊び仲間は、小学校の学年が進むにつれ、それぞれ学校の友達と遊ぶことの方が多くなり、自然に解散していった。

長屋アパートは、今では小綺麗なアパートに建て替えられ、姫リンゴの姫はそこに住んでいる。

これからの子供たちにも、いろいろな価値観に触れることで、成長の糧にしてもらいたいと思う。
今は、それぞれの家庭の考え方に他人が入り込めない風潮がある。
以前に戻ることはできないが、この良さを取り入れることはできるのではないだろうか。

地元のコミュニティって大切だと思う。

次回は、その23 家事分担問題 です=^_^=

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