![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/141753892/rectangle_large_type_2_f06bb22fc63e19ff56df095c6b67eb0a.jpeg?width=1200)
学ぶための本を正しく理解するプロセス──『本を読む本』読書感想文
最初からめちゃくちゃ私感でものを言ってしまうが、一部をかいつまんで読むことのできる本はこの世にはたくさん存在すると思う。でも、この本は“通読”するべき本だと思う。
※“通読”の定義については、本書のものは世間一般の認識とはちょっと異なるので、ぜひ一読してみてください。
あらゆる「本」には著者の統一見解が存在する(まともな著者が書いたものなら)。
その統一見解を読者は発見し、著者に近づきながら内容を理解した上で、自分の考えと照らし合わせて最終判断を下す。
そういう双方向のやりとりのある読書をしたいものだなと思わせてくれる本だった。
与えられる情報を自らの糧とする技術
いまの私たちは、世界について昔より多くを知ることができるようになっている。それは恵まれている。深く理解するために、多く知ることが絶対に必要であるなら、それも結構だろう。だが一から十まで知らなくても物事を理解することはできる。情報過多は、むしろ理解の妨げになることさえある。われわれ現代人は、情報の洪水の中でかえって物事の姿が見えなくなってしまっている。
こういうことになったのはなぜか。──理由の一つは、現代のマス・メディアそのものが、自分の頭でものを考えなくてもよいような仕掛けにできていることである。現代の頭脳はその粋を集めて、情報や意見の知的パッケージを作るという大発明をなしとげた。この知的パッケージを、私たちは、テレビ、ラジオ、雑誌から受けとっている。そこには気のきいた言い回し、選びぬかれた統計、資料などがすべて整えられていて、私たちはいながらにして「自分の判断を下す」ことができる。だがこの知的パッケージがよくできすぎていて、自分の判断を下す手間まで省いてくれるので、読者や視聴者はまったく頭を使わなくてもすんでしまう。
この本は1940年にアメリカで刊行された。
そこから一世紀近い時を経て、現代では情報の量はさらに豊かになった。いつでも、世界中のどこでも、欲しい情報がすぐに手に入る。
ただしそれらの大半は、誰も責任を負わない情報だ。そこが1940年当時との一番の差異かもしれない。情報の無法地帯を歩まねばならない時代に私たちは生きている。
だからこそ、自分で判断する力をもつことは、本書が書かれた時分よりもさらに必然として迫られているのではないか。
読書技術には「手助けなしの発見」に必要な技術がすべて含まれていると著者はいう。鋭い観察力、たしかな記憶力、豊かな想像力、分析や思考によって鍛えられた知性といった類の技術(能力)を身につけられると。
その通りだと思う。
しかしそれは、ただ漫然とメディアや他者の提供する情報を「受け取る」読書をしているだけではたどり着かないところだ。
読書に学びと発見を求めるなら、自分自身で主体的に理解を拡張する方法を手に入れなければならない。
本を見極め、正しく理解するには
読書には大なり小なり読む人それぞれの目的があると思う。
この本では先の段落に書いたように「人生において学びと発見をし続ける」ための読書技術をメインテーマとしているので、基本的にそれに対して重要だと著者が考えるアプローチが紹介される。
特に第二部「分析読書」は非常に納得・共感する部分が多かった。
目的に応じて「ためになる本」を見極めねばならない。そして正しく内容を理解せねばならない。そのマイルストンともいえるポイントが、本書のインデックスにある下記のような内容だ。
(かなり端折っているので、詳しくは本書を読んでください)
本を分類する
書名から「理論的」か「実践的」かなど本の性質を見極める。第一部に書かれる、読書のはじめに本のおおよそを捉えておく「点検読書」もこの前段となる重要な要素。
「教養書」というのは、広い意味での知識の伝達を第一の目的とする本のことである。いろいろな意見、理論、仮説、思考を記し、その真理性を主張する本はすべて、この意味で教養書である。フィクションと同様、教養書もたいていは一目でそれとわかる。だがここで問題とするのは、ノンフィクションとフィクションを区別することではなくて、教養書の中のいろいろの種類を見分けることである。どの本がいちばんわかりやすく、ためになるかということだけでなく、ある部門の本でためになるのはどれかを知ることである。
本を透視する
2-3行の要約を作成し、本の主題・目的を発見する。
(その本を数行であらわしてみることは)その本が全体としてどんな本か、できるだけ手みじかに述べてみるということである。どんな「種類の」本かということとは違う。
〜中略〜
ここでどんな本かと言っているのは、著者の意図、著者が何を言おうとしているか、ということである。これがわかれば、その本の主題、あるいは目的を発見したことになる。
〜中略〜
言葉で言いあらわせないのに、「統一があると思う」だけで満足してしまってはだめだ。「わかっているんだけど、ちょっと言えない」のではお話にならない。
著者と折り合いをつける
著者との共通言語を獲得する。
著者は特に重要語の定義を曖昧にしないよう注意を払って文章を書き、読者はなるべく著者の理解に近づく努力をするということであると私は理解した。
言葉は知識を伝える媒体としては不完全であるから、コミュニケーションの妨げになることもある。解釈の規則は、この障害を克服するためのものである。すぐれた書き手は、この避けがたい言葉の障壁をのりこえて、何とか読み手とのコミュニケーションをはかろうとする。だが、すべて書き手まかせというわけにはいかない。読み手からも歩み寄ることが大切である。
著者の伝えたいことはなにか
キーセンテンス、命題、論証を順に見つける。そこから、著者が解決しようとした課題のうち、著者の解決は何であったか(解決しない事柄に対してどのように振るまっているか)を見出すことができれば、本の内容が理解できたといえると著者は述べる。
ふつう、読者は、著者が、事実や知識について、率直に意見を表明していることを前提に読む。著者個人に対する興味から読む場合はそれでもよいが、本の内容を本当に理解しようとするなら、著者の意見がわかっただけでは十分でない。「はっきりと根拠が示されていない限り、著者の命題は個人的な意見にすぎない」からである。読者は命題を知るだけでなく、「その命題をたてるにいたった理由」を理解しなくてはならない。
これらの「本を正しく理解するポイント」を経てはじめて、読者は著者と肩を並べて批評・意見・対話ができるのだという。
学びのための読書の道筋として、とてもわかりやすいし納得がいく内容だ。
こういう良い読書を地道に積み上げていけば、自ずと縦横無尽に多数の本を行き来するシントピカル読書につながるよな、と思う。
伸びしろをできるだけ伸ばす
少し話は本題から逸れるが、この本に励まされたフレーズがある。
ところで、人間の精神には一つ不思議なはたらきがある。それはどこまでも成長しつづけることである。このことは、肉体と精神のきわだった違いである。肉体にはさまざまの限界があるが、精神に限界はない。人間の肉体は、ふつう三十歳位をピークにしだいに下降線をたどるものだが、精神は、ある年齢を境に成長が止まるということはない。
できないことはできない。できることを伸ばしていこう。
当たり前だけど、そう思った。
過去を悔やんだり羨んでいても、他者を羨んでいても何も変わらない。
自分でコントロールできるのは、せいぜい自分だけなんだから、人生を楽しむためには自分というものを伸ばすことにまず注力しなきゃいけない(その中で必然的に他者との関わり方なども学ぶことになると思う)。
「読書しても、わからんことはわからん。。。」
そんな自分に失望すること数十年、休み休み、サボりサボり、でもめげず諦めずに読書してきて、最近ほんとうに読書を心から楽しめるようになった。
「読書しても、わからんことはわからん!」
「何か欲しい」「何か得たい」という超漠然とした目的をもった読書から、読書を介して目の前に展開される新しい世界の解釈と理解を楽しもうとする気持ちが強くなったために、肩の力が抜けて、ネガティブではなくポジティブにそう思うようになった。
あれも知りたい、これも知りたい。
10代の頃にはどうしても手に入れられなかった学びたいという気持ちが、40代を前にはじめて内発的に生じるようになった。
一般的には遅いかもしれないけど、私にとってはこれが一番良い「読書」のタイミングなのだと思う。
こうやってnoteに書き留めておくのも、あくまでその時の知識で、その時の状況で精一杯著者に近づこうとして解釈した結果の一部にしかすぎない。
数年後、数十年後に精神的にもう少し成熟したはずの自分が、このnoteを振り返って、その時の必要に応じた再読や展開読書を楽しめれば良いなと思っている。
カバー写真:Image by Mirko Stödter from Pixabay