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自分の考えを練り上げ、展開せよ──『暇と退屈の倫理学』読書感想文

この本は出張の時に、書店に立ち寄って購入した。
普段に比べて家事労働の時間はなく、電車移動やひとり飯の機会が多いため、持参した2冊の本をあっという間に読み終えてしまい「退屈」していたからだ。

本書は「なぜ人は退屈するのか」「退屈を感じるのはどのような時か」「そもそも退屈と何か」などの「退屈」に関する問いについて、さまざまな思想家の定義を追いながら、紐解いていく。
私たちが常日頃漠然と感じる「退屈」への具体的対処法が書いてあるわけではないし、時に先人たちの表明した考えをあからさまに手厳しく批判する場面もある。

なぜ、あえてわかりやすく批判的な書き方をするのだろうか??
(特にハイデッガーの「退屈論」の結論について)

読んでいる途中で溢れてきた私の疑問は、終盤の下記の箇所に収斂された。
著者のその態度には、こんな意図があったのだ。

読者はここまで読み進めてきたなかで、自分なりの本書との付き合い方を発見してきたはずだ(もしそれが発見できなかったなら、ここまで通読するのは難しかったであろう)。それが何よりも大切なのである。それが暇と退屈というテーマの自分の受け止め方を涵養していく。それこそが一人一人の〈暇と退屈の倫理学〉を開いていく。そうやって開かれた一人一人の〈暇と退屈の倫理学〉があってはじめて、本書の結論は意味をもつ。

結論(p.393)

先人の知恵は、あくまでその人のものでしかないし、参照先である。

論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく、そういう過程こそが重要であるのだから。

結論(p.394)

自分の頭で考え、練り上げていかなければ意味がない。
私が本書で一番の主張だと思ったのはこの部分。暇と退屈を切り口とした教育論だった。


私が「退屈」について思うこと

──なぜ、人は退屈するのか?

この問いに対し、著者は「この本は人に「君はどう思う?」と聞いてみるために書いた」とあとがきで述べている。
パスカルでも、ハイデッガーでも、著者の國分さんでもない、私たち自身の解釈と考えだ。

だから、この本の読書感想文では、その内容を追うより、自分なりの退屈というものへの理解を書き留めておく方が読者として誠実な態度ではないかと思う。

退屈とはなんなのか。なぜ、人は退屈するのか。
私は、「退屈」のすべては自分の中の主観から生じているものだと考える。

人間である限り、主観からは絶対に逃れられない。
退屈は他でもない、「自分」が感じていることだ。
だったら、自分の主観をコントロールして、時に自分を騙しながら、自分の気持ちの良い方向に向けて生きるしかないじゃないか。

退屈=罪悪という考え方を打破するでも良い。
妄想によって退屈を楽しむでも良い。
退屈を感じた時の状況を詳細に分析してみるでも良い。
そもそも退屈は? という問いに立ち戻ってみるのも良い。

そのように試行錯誤して、退屈と自分の関係性を構築していく。
退屈というものと正面から対峙し、退屈というものへの理解と考察を深めていく。

この主語はもしかすると、「退屈」だけでなく、世の中のすべての物事に対して置き換えられることじゃないだろうか。

哲学する意味

そして、自分で考えたことを踏まえて、今度はその退屈の外に新たな視点を向け、問いを立ててみる。
それこそが重要だと著者は述べる。

「退屈を許されないとはどういう状況か?」
「実際にそのような状況に置かれている人はこの世にいないのか?」
「私たちはそれに対して何をしていくべきか」

問いを起点に、知識を深め、思考を深め、それを社会的な問題に展開していく。
哲学とは、問題解決に主体性を付加するための思考の入り口であり、自己啓発やマインドチェンジの良き教材なのだな、と本書を読んで思った。

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