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文章の力が証明された書のひとつ──『沈黙の春』読書感想文

著者は生物学者のレイチェル・カーソン。
表題の作は、当時使用されていた農薬(殺虫剤)が環境に及ぼす有害な影響の可能性を指摘し、その後に続く環境運動の発端となった書であると言われている。

彼女はまた世界的なベストセラー『センス・オブ・ワンダー』の作者でもある。

今回上記も併せて読んだが、
圧倒的な自然の力。その一部としてある人間の姿。
誰もが一度は感じたことのある、しかし忘れかけている感性を呼び覚ましてくれるような、五感に訴えかける美しい文章で綴られる。
説教くさいところは一つもないのだが、自然をありのままに受け止める人間の本能的な感性の大切さに気付かされる本だ。


沈黙の春というタイトル

『沈黙の春』は1962年の出版である。
社会的・経済的な利権や合理性を優先した農薬散布による生態系への影響。昆虫、動物、時には人間(致死的な事象や発がん性)にまで害を及ぼすそれらの行為に危機感を募らせた著者が、広範に情報・証拠を集めて上梓した。

60年前の、いわば告発文だ。
内容のすべてが正しく実証されているわけではないが、人間の都合で自然をコントロールしようとすることの愚かさなど、近現代人が抱える病に鋭くメスを入れた内容になっている。

当時使用されていた農薬・殺虫剤などが身近な生活へ及ぼす影響の描写は、具体的でとてもセンセーショナルだ。

ミシガン州には防虫法があって、田畑の地主に相談なく、あたり一面自由にスプレーできる。こうして、デトロイト地方を飛行機が低空で飛びはじめた。ところが、それからしばらくすると、市役所、政府航空局出張所のデスクの電話は鳴りづめ。市民からの苦情だった。たった一時間のうちに、八百回も電話がかってくる。そこで、警察は、ラジオ、テレビ、新聞を通じて、いまマメコガネ駆除のスプレーが行われてるので心配はいらない、と呼びかけた(「デトロイト・ニューズ」による)。航空局出張所では、(飛行は十分な注意のもとに行われ、かつ低空飛行の許可があたえられている)と、発表した。それでも、みんな心配するので、飛行機には非常コックがついていて、つんでいるものをいつでもすぐ捨てられる、と言い加えた。幸いに、こうしたことにはならなかったが、飛行機がせっせと飛びまわるにつれて、殺虫剤の弾丸が、マメコガネの上にも、そして上にも落ちてきた。買物に行く人たち、仕事に出かける人たち、おひるを食べに学校から帰ってくる子供たち、みんなの頭上に、《無害な》毒が降ってきた。家庭の主婦たちは、《雪のような》細かい殺虫剤の粒を玄関先や歩道からほうきで掃いた。ミシガン州のオードゥボン協会があとから述べているところによれば、《屋根板のあいだ、ひさしの雨どい、樹皮の裂け目、小枝の傷のなかに、泥とかたまりあったアルドリンの小さな白い玉が、何百万と見つかった。ピンの頭くらいの小さな玉⋯⋯⋯雪や雨が降れば、水たまりという水たまりは、毒池となってしまうだろう。》
殺虫剤をまいてから二、三日もたたないうちに、デトロイトのオードゥポン協会にはひっきりなしにかかってきた。みな鳥についての電話だった。協会秘書アン・ボイズ夫人の説明によると、《私が最初にうけた電話は、日曜日の朝ある女性からかかってきたもので、その女性は教会から家へ帰ってみると、びつくりするほどたくさんの死んだ鳥、また死にかけている鳥の姿が見られたというのです。殺虫剤スプレーがあったのは、木曜日でした。空を見上げても、鳥はどこにも飛んでいず、その女性が言いますのには、自分の家の裏庭では少なくとも十二羽の小鳥が死んでいて、近所ではリスまで死んでいたそうです》。その日かかってきた電話は、みんな《死んで、生きているのは一羽もいない。……餌箱をかけていた人たちは、全然小鳥が姿をあらわさない、というのでした》。死にかけている鳥を手にとってみると、明らかに殺虫剤中毒の症状があらわれていた。からだをふるわせ、飛ぶ力を失い、麻痺、痙攣などを起していた。

七 何のための大破壊?(p.110)

イリノイ州で使った殺虫剤は、相手かまわずみな殺しにする。ある一種類だけを殺したいと思っても、不可能なのである。だが、なぜまたこうした殺虫剤を使うのかといえば、よくきくから、劇薬だからなのである。これにふれる生物は、ことごとく中毒してしまう。飼猫、牛、野原のウサギ、空高くまいあがり、さえずるハマヒバリ、などみんな。でも、いったいこの動物のうちどれが私たちに害をあたえるというのだろうか。むしろ、こうした動物たちがいればこそ、私たちの生活は豊かになる。だが、人間がかれらにむくいるものは死だ。苦しみぬかせたあげく殺す。シェルダンの町で専門家が、死に瀕しているマキバドリを観察しているが、それは──《筋肉の調整ができず、飛ぶことも立つこともできず、横倒れになりながらも、羽をしきりにばたつかせ、足指は、しっかりにぎられていた。嘴をあけたまま苦しそうに息をしていた》。もっとあわれだったのは、ジリスだった。どんなに苦しんだか、その死体はその跡を無言のうちに語っていた。《背中を丸め、指をかたくにぎったまま前足は胸のあたりをかきむしり⋯⋯頭と首をのけぞらせ口はあいたままで、泥がつまっていた。苦しみのあまり土をかみまわったと考えられる》。
動物たちをこんなにひどい目にあわす行為を黙認しておきながら、人間として胸の張れるものはどこにいるであろう?

七 何のための大破壊?(p.120)

このような病歴とはどんなものなのだろうか。たとえば、ある主婦。クモが大きらいだった。八月の半ばごろ、DDTと石油溜出物のエアゾールをもって地下室へおりていき、階段下とか、果物棚とか、天井板や種のあいだなど、すみからすみまで消毒した。スプレー後、ひどく気分が悪くなり、吐き気がした。また、気がいらだち、わけのわからない不安におそわれたりした。二、三日たつうちに元気になったので、どうしてあんな目にあったのか、まさか殺虫剤のためとは思わず、九月に入ってから二回ばかりまた徹底的に撒布をした。二度目のときも気分が悪くなったが、たいしたことはなかった。だが、三度目にエアゾールを使ったあと、新しい症状があらわれた。発熱、関節の痛み、全身の不快感、片脚に急性静脈炎。ハーグレイヴズ博士が診察してみると、急性白血病にかかっていた。その翌月、彼女は死んだ。

十四 四人にひとり(p.250)

こういう内容ではあるが、タイトルが『悪魔の毒薬』だとか『皆殺しの所業』などではなく、『沈黙の春』というのが本当に秀逸だ。
本書で疑問が呈される対象は、そこにある農薬という存在ではなく、それを無批判に利用する人間の考え方なのだから。

だから、この本をどう受け取るかという姿勢は、やはり解説部分で語られる下記のような形がふさわしい。
どんな言説においてもそうだが、必要なのは細部への批判ではない。主張の本質への議論だ。

現代科学の所産を無批判にうけうりしていてはならない。そこには規模の大小こそあれ設計がなければならない。敵は一個の農薬ではないのである。無批判な化学薬品万能主義なのである。農薬の使用と生態学的方法とは不倶戴天の敵ではなく、生態学的方法は、生物学的コントロールをも化学薬品の使用をも、その視野のなかに正当にとりいれるものである。カーソンも、農薬の開発などやめてしまえといっているわけではない。ただ、誤った一辺倒に気づいて、困難であろうとも有効かつ無害な真の道を歩かねばならないという。
〜中略〜
カーソンはアメリカのみならずヨーロッパ、東南アジアの各地から日本に渡ってよく資料を集め、生物関係の諸科学の研究を深く学び綜合的に考えてはいるが、その記述の各部について種々の批判はあろうし、それよりもなお、われわれ自身の問題をカーソンが肩代わりして解決してくれたわけではないのである。われわれは目を開かれる。光明を求める方向を暗示される。同時に重荷はわれわれ自身の肩にかかるのである。

解説(p.396)

事実から目を逸らさず、流れに「水を指す」

それでいい。それがいいと一般的には受け止められていることに対し「いや違う」と横槍を入れるのは、大きな勇気が必要な行為だ。
(もちろん、それにじわじわと疑問を持つ人がいた頃合いだからこそ受け入れられたということもあるだろうけれど)

この本で主な問題として取り上げられている「農薬(当時使用されていたDDTをはじめとする生物への毒性の強い化学物質)散布」の問題は、特に社会的・経済的な利権が絡むため、メリットを享受している人からは当然のように反発があることが予期されただろう。

カーソンさんの主張は、単なる生態系への影響やある場所で確実に深刻な事態を生んでいる現状への批判ではなく、目の前の課題に対し、手っ取り早い解決方法を安易に選択してしまう危険への言及だ。
「もう少し遠く広く考えたら、その選択はしないはずだ」という、選択的無知・盲目への。

自然界では、一つだけ離れて存在するものなどないのだ。

四 地表の水、地底の海(p.69)

調べても、正しい情報でないこともある。
考えても、正解はないこともある

だが、それにもまして大切なのは、自然の均衡をきずつけないことなのだ。ノーヴァ・スコーシャの昆虫学者たちは、G・C・アルエットの考えを理想的に実現しようとしているといえよう。カナダの昆虫学者であるアルエットは、自分の人生観をいまから10年ばかりまえこのように言いあらわした――《私たちは、世界観をかえなければならない。人間がいちばん偉い、という態度を捨て去るべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなく行われている》。

十五 自然は逆襲する(p.285)

本書の中に引用されたこの言葉は、とても正しく立派な言葉だと思う。

しかし果たして、切羽詰まった状況下で、目の前に差し出された「一般的な」「手っ取り早い」「よく効く」解決方法に飛びつかないでいられるものだろうか。

つい最近、世の中を席巻していたコロナ禍に思う。
どれだけ、渦中にあって正しく状況を掴むのが難しいか。
どれだけ、あとから見て正しい判断ができるのか。

さらに致死率が高い病だったら?
生死の瀬戸際にいる状況で、ウイルスを媒介している(と考えられる)生物を淘汰しようと考えないか。
危機に瀕して、臨床試験をパスしていないようなワクチンがもし差し出されたら、打つのか打たないのか。
そもそも、それらの行為が人間の驕りであるなんて、そんな思惟がその状況下で頭に浮かぶだろうか。

自分の頭で考えろ、考えろ。
盲目的に恐れるのではなく、かといって盲目的に信奉し、受け入れるのではない。

どれだけ必要か、
どれだけリスクがあるか、
一般的な言論は本当に正しいのか、
専門家の意見は本当に正しいのか、
将来的に取り返しがつくのか、つかないのか。

どれだけ考えても、間違っていたということはある。どれだけ考えても、結論が出ないこともある。

考えることは嫌いだったり苦手な物事に否応なしに向き合わなければいけないし、だからたいていめんどくさい。

人にどうぞと預けたくなる。

でも、
自分で考えること、自分で決断することは、自分の責任で自分の生に向かうということだ。

自分で考えないこと、自分で決断しないことは、
生きることそのものを放棄しているということだ。
だから、考えること・決断することを諦めたくないし、やめてはいけないんだろう。


……なんだかちょっと話の筋が逸れた気もするけど、本書を読み終わった後にこんなことを考えた。

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