書くことは、沈黙に触れること。
私には人に伝えなければという役割は、
ありません。
なのに、なんで220日も
毎日書いてきたんだろうnote。
と、ふと思います。
役割は求められてないのに、
姿勢をくずさずにかけている気がするのは、
「沈黙したままの自分」
もまだいるからだと思いました。
220日書いたからと言って、
すべてを明かしたわけではなく、
言い放ち解き放ち、開放され尽くすわけでも
ないんです。
書く前の、すべてを胸に秘めてた頃よりは、
ずいぶんと楽です。
でもきっと、
「沈黙部分」があるから、
安心して書き続けられる、
と同時に
書くことで自分の
「沈黙部分」が明らめられてくることもまた
快だから、やめられないんですね。
いつか、沈黙がなくなったときの
自分がどんな自分か?も
楽しみにしながら。
私は無口です。
「何を考えてるかわからない」部門で、
高校のクラス文集アンケートで一位にも
なりました。
(無表情部門も一位)
なぜ無口なのかー?
「犬が無口であるがゆえに、
人間のほうがその思いを汲もうと勉強
していく」
というのを読んではたと。
「無口でいれば、
まわりが汲んでくれるだろう」
と思ってたからなんですね。
なんて横柄な!
でも、たぶんほんとうです。
話すとうまくしゃべれないし、
理解されないし、
誤解を生むんで、ならばしゃべらぬ。
無口でいた方が、得。楽。と。
草も花も
木も川も、
空も太陽も無口だ。
自然はしゃべらない。
人間が、翻訳する。
勝手に楽しんでくれている。
人間が、勉強する。
春に咲く花の意味を、
月の満ち欠けの意味を。
沈黙は、語る。
そんな存在でありたかったのかな。
人間が、自然ほどになりうるはずはないのに!
ただいえることは、
自然界にあるものはすべて、
一定ではない。
季節によって、時によって移ろいゆく
変化がある。
自ら変化している。
だから、無口なのに、語られる。
そんな自然自らの姿勢と行動が、
だれかの役に、たっている。
「ともだちと立ち話以上」
でも
「ともだちとカフェで座して語り合う未満」
が、ほどよい書き位置。
わたしの、立ち位置。
きょうもお付き合いいただき
ありがとうございます。
雲は語る。
わけはなくて、
雲を見ては、語る、書く。
書くことは、沈黙に触れること。