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写真を撮ることは書くことに似ている。撮りたいものにフォーカスする、ピントを合わせる。何を伝えたいのかはっきりせず、絞らないとピンポケする。画角や構図は、受け取る相手が魅力に感じるかを左右する。文のリズムや改行、助詞一つで、読み進めたい衝動を左右する。 生きることにも似ている。
「そういうときもありますわな」と、仕事でトラブルに見舞われた先輩に、大先輩が言葉をかけた。「そういうときもありますよね」と先輩が呼応すると不思議と場が和んだ。「そういうもん」だと思えば、そういうもんに収まるから不思議。空を見たら、ハートだった。そういうときもあるよね。
「動いてくれないものを、動かすには、自分がその魅力に気づいて動かすこと」とある写真家が言った。被写体の空も雲も植物も動かない。動かそうとしても動かない。それは人に向けても同じで、人の心を動かすには、自分の心と体が動くしかない。それが「働く」ということなんだろうと思う。
「そのコミュニケーションは誰に向けてのものか考えよう」と、本に書いてあった。と、今私は誰に向けてるのか?と考えると自分自身だった。誰の「どこ」に向けているのかも考えたいと思ったら、それは自分自身の「無意識」に対してだった。無意識にしているコミュニケーションに向かいたい。
違和感というのはもやもやするけど、違和感のない世界より、違和感のある世界の方がきっと健全で面白くて、案外整っていたりして美しい。
「苦くて甘い今を生きている」とラジオから「手紙 〜拝啓 十五の君へ〜」のメロディともに流れてきた。「甘くて苦い」んではないんだなあ。「昨日でも明日でもなく、今」なんだなあと思う四十ニの私。成人式から22年。苦くてもきっと甘い明日を。