アナログ派の愉しみ/映画◎ガブリエル・アクセル監督『バベットの晩餐会』

だれかを食事に招くとは
その人の幸せを引き受けることである


「だれかを食事に招くということは、その人が自分の家にいる間じゅうその幸せを引き受けるということである」

 
これは、ヴェルサイユの裁判所判事をつとめながら、稀代の食通として名を馳せたブリヤ=サヴァランの著作『美味礼賛』(1828年)のなかの格言のひとつである。デンマークのガブリエル・アクセル監督による『バベットの晩餐会』(1987年)は、あたかもこの言葉を実証してみせたかのような映画だ。

 
ときは19世紀後半。パリの最高級レストラン「カフェ・アングレ」で女性ながら厨房長をつとめていたバベット(ステファーヌ・オードラン)は、突如、プロレタリア独裁をめざすパリ・コミューン(1871年)の暴動に巻き込まれて夫と息子を失い、ただひとり海を渡ってデンマークの海辺の寒村ユトランドに逃げてきた。その地でひたすら神に奉仕して清廉な生活を送る初老の姉妹に迎え入れられ、家政婦として働きながら歳月を重ねたのち、彼女は思いがけずパリの親族に頼んだ宝くじが当たって1万フランを手にすると、この賞金を元手に長年世話になってきた姉妹と村人たちの計12人を自慢の料理でもてなすことにする。そのメニューがものすごい。

 
○海ガメのスープ
○ロシア産キャビアのドミドフ風
○ウズラのパイ詰め石棺
○季節のサラダ
○チーズ:カンタル、フルムダンベール、オーベルニュブルー
○ババのラム酒風味
○フレッシュフルーツ
○コーヒー
○アルコール:アモンティヤード、ヴーヴ・クリコ1860年、クロ・ヴージュ、ハイン・コニャック

 
これらを一切の妥協なくつくるために、フランスからおびただしい材料が運ばれてきたところ、そこには生きた海ガメやウズラ、また、牛の頭部なども含まれていて、ふだん粗食に馴染んで信仰心だけを糧としてきた姉妹や村人たちには悪魔の所業としか思えず、晩餐会ではテーブルに出されたものを決して味わったり褒めたりすることのないよう申し合わせる。しかし、いざその夜がやってきてディナーがはじまるなり、だれもが生まれて初めて口にする本式のフランス料理に舌鼓を打ち、気持ちがほぐれて、いさかいをしていた者同士も笑顔で和解するのだった。こうして奇跡のようなひとときが実現して、客人を送りだしたあとで、姉妹がバベットに謝意を伝えると、彼女は胸を張ってこう応えた。

 
「私はお客さまを幸せにしました、全力を尽くして……」

 
おそらく、冒頭に掲げたブリヤ=サヴァランの格言を踏まえたセリフだろう。わたしも登場人物といっしょにご相伴に与ったような気分でつい頷きたくなるのだけれど、しかし、落ち着いて考えてみると首をかしげてしまう。なぜなら、ふだん質素なスープでかろうじて空腹を癒している人々を絢爛豪華なご馳走でもてなしたところで、しょせん一度きりのサプライズに過ぎす、たとえ最高の美味を知ったとしてもふたたび体験できるはずがない。それをもって、幸せにしたというのは烏滸(おこ)がましい気がするのは、わたしがへそまがりだからだろうか?

 
必ずしもそうではなさそうだ。わが国のフランス料理研究の草分け、辻静雄もくだんのブリヤ=サヴァランの格言についてこう評している。「こんな大袈裟なことがよく言えるなという意味にもとれます。主人役と招待客とじゃ、まるで食卓という舞台を使って、役者と観客をそれぞれ演じているわけで、客観的に幸せなどというようなことはあり得ないとも思います。この両者の実在は、食卓という場の『時間の推移』をつかの間の、かけぬけていってしまう瞬間として捉えているもので、これは静止しているのか、運動しているのか、こうして自己を感じとっていくものだと思います」――。まさしく卓見だ。

 
すなわち、この『バベットの晩餐会』は人類が発明した究極の美食の内奥を解き明かしただけでなく、無垢な老姉妹を軸に「食卓という場の『時間の推移』」を描きだして批評としても成り立たせたことにより、フランス料理を主題とした映画の最高傑作の座を占めてきたのだろう。秋の夜長に、わたしはイカの塩辛を肴に焼酎を舐めながら、そんなふうに思いめぐらしたのである。
 

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