アナログ派の愉しみ/本◎吉行淳之介 現代語訳『好色一代男』

ずばり、
女護の島はどこに?


「娼婦小説」といったジャンルで一世を風靡した吉行淳之介は、江戸時代初期の井原西鶴がものした『好色一代男』(1682年)の現代語訳に熱心に取り組んだ。よほど琴線に触れるところがあったらしい。浮世草子の先駆けとされるこの作品の主人公、世之介は兵庫の鉱山王の家に生まれて7歳で色恋の道を知り、11歳にして伏見の女郎を相手に初体験してから、生涯に3742人の女人、725人の若衆と関係を持ったという。とりわけめざましいエピソードは、35歳の年にいきなり京の名妓・吉野太夫を身請けしたことだろうが、吉行は「覚え書」で以下の自己の経験に照らして疑問を呈している。

 
「私事にわたるが、むかしむかし招待されてある一流花柳界に幾度か連れて行ってもらっているうち、若い芸者に好意をもたれたことがある。〔中略〕当時私は三十半ばの貧書生で、赤線については通暁していたが、花柳界の上等のほうとなると、右も左も分らない。芸者と深い仲になると、家作(かさく)の一、二軒はすぐ失くなってしまう、というような言葉だけが思い出されるが、そういう家作はもっていない。仮にデートに誘うとしても、遠出の玉(ぎょく)をつけなくてはいけないものか、そこらの同伴ホテルにいきなり行っていいものか、考え込んでいるうちに、そのままになってしまった」

 
つまり、三十路の若造がいくら色街で修業したにせよ、とうてい花柳界の横綱のような吉野太夫を自由に扱えるはずはない、と断じているのだ。さすがである。そのうえで、西鶴の周辺には実際に吉野太夫と関係のあった大富豪が存在して、かれをモデルに世之介を造型した可能性があると推理を進めていくのだが、それはともかく、天下の遊蕩児の物語とおのれの実体験を重ねあわせて論じるなどおいそれとできることではない。しかし、そんな吉行をもってしても、あまりにも大胆な世之介の宣言については困惑したようだ。

 
「されば、浮世の遊君(ゆうくん)、白拍子(しらびょうし)、戯女(たわれめ)、見残したもの一つとしてない。わたしをはじめここの男たちは、この世に心を残すものは何もない身だから、これより女護(にょご)の島に渡って、掴みどりの女を見せよう」

 
全54篇のラストで、すでに還暦を迎えた世之介は7名の同好の士と誘いあわせて、難波江から好色丸(よしいろまる)と名づけた屋形船を漕ぎだし、この言葉を残して大海原のかなたへ去っていったのだ。果たして、女護の島とはどこにあるのか? 吉行は「覚え書」で、伊豆七島の八丈島に「女護島」の別名があったという説を紹介したあとで、自分にぴんとくるのは、世之介ら一行は「ふたたび帰らぬ旅への船出」を実行したのであり、したがって好色丸の目的地は黄泉の国だったとする見解を披瀝している。

 
本当にそうだろうか? わたしは首を傾げたくなる。およそ世之介や吉行の足元にもおよばぬほどそちらの方面に疎い立場で、ここにひと言を挟むのは気が引けるけれど、女護の島という呼び名を前にしてありありと浮かんでくる光景があるのだ。

 
もうずいぶん以前、東京・銀座でいまはないフランス系のおしゃれな百貨店が賑わっていたころの話だ。わたしの勤める会社がそこのイベントスペースでパブリシティを行うことになり、事前の打ち合わせに赴いた。平日の昼下がり。先方の女性スタッフと会議室でやりとりする合間に、当時はタバコを吸っていたので喫煙場所の有無を尋ねたところ、7階の社員食堂の奥にあるという。そこで、さっそく足を運んでみたら――。わたしは見たのだ。この百貨店では従業員の9割以上を女性が占めると聞いていたが、バックヤードの社員食堂ではその彼女たちがくつろいでいた。ぺちゃくちゃしゃべりながら食事をしているだけではない、テーブルにうつ伏せになったり、並べた椅子の上に横たわって鼾をかいたり。こちらに目を向ける者などいないなかを分け入って喫煙スペースに辿りつくと、女性たちがひしめきあってルージュの唇にくわえたタバコをプカプカやり、なかには悠然とウンコ座りして下着丸出しの格好で紫煙を吹き上げるツワモノも……。そのひとりひとりがみな念入りな化粧とファッションで輝くばかりだっただけに、いっそう凄みがあった。慌ただしく会議室に戻ってきたわたしの表情がよほど強張っていたのだろう、先刻の女性スタッフが「あ、見ちゃったんですね?」と、ぺろりと舌を出したものだ。

 
それは女性たちが背負うしがらみから解き放たれて、のびのびと過ごしている姿だったかもしれない。だとするなら、ふだん男どもの目には見えないだけで、実のところ世間のあちらこちらに女護の島は存在しているのではないだろうか。
 

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