アナログ派の愉しみ/映画◎ヒッチコック監督『バルカン超特急』

何もかもばかばかしく、
すばらしい


「まったくばかばかしい。おふざけもいいところだ!」(山田宏一・蓮実重彦訳)

 
サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックは、フランソワ・トリュフォーとの対話による『映画術』(1966年)のなかで、イギリス時代の監督作品『バルカン超特急』(1938年)についてそんなコメントをしている。

 
第一次世界大戦と第二次世界大戦のあいだの戦間期。バルカン半島の小国からスイスのバーゼルに向かう特急列車が雪崩のため足止めされて出発が一日遅れた。そこにはさまざまな言語を話す有象無象の老若男女が乗りあわせていたが、結婚前のバカンスを友人と過ごした若いイギリス人女性アイリス(マーガレット・ロックウッド)は、やはりイギリスへの帰途にあるという老婦人フロイ(メイ・ウィッティ)と親しくなって同席する。ところが、ひと眠りして目を覚ますとフロイの姿はなく、まわりの乗客や乗務員もそんな人物は知らない、夢でも見たのだろうと首を振るばかり。ただひとり彼女の言い分を信じてくれた音楽家の青年ギルバート(マイケル・レッドグレイヴ)と連れだって車内を捜索するうち、次第に国際的な陰謀の影が浮かびあがってくる。

 
アイリスとギルバートはやがて、全身繃帯の病人の格好で拉致されていたフロイを発見して救いだしたものの、それも束の間、いつの間にか車輛が列車本体から切り離されて森林地帯に迷い込むと待ち構えていた軍人たちの銃撃を受ける。そのさなかにフロイはふたの前でスパイの正体を明かし、もし自分がここで死んだときにはイギリス外務省に伝えてほしい、と音楽のメロディを用いた暗号文を授けるのだった。――こうしたストーリー展開について、ヒッチコックはみずから一笑に付すのだ。

 
「そもそも、なぜこんな無力な老婦人に大事なメッセージを託したのかということ。たとえば伝書鳩を使ったほうがずっと簡単だったろうに、なぜそんなことも考えなかったのか。それに、なぜ、敵のスパイたちがこの老婦人ひとりを列車から連れ去るために、乗客たちを買収して彼女の姿など見かけなかったと口車をあわせたり、老婦人の服をほかの女に着せて身がわりにさせるといった面倒な工作をしなければならないのか。さらに、なぜこの老婦人を森のなかで消そうとしてわざわざ車輛を列車から切り離して支線にみちびいたりしなければならないのか……」

 
確かにそのとおりだろう。聞き手のトリフォーのほうも遠慮なく賛意を表して、こんなふうに応じる。

 
「何もかもばかばかしく、すばらしい」

 
ばかばかしく、すばらしい。まさに同じ感想をだれもが持つに違いない。実際、この作品が大ヒットしたこともあってヒッチコックはアメリカの映画界に招聘され、以後、約40年間にわたってハリウッドを拠点として大活躍を繰り広げる。かくして、かれのサスペンスの世界はいっそうスケールアップして、『裏窓』(1954年)、『北北西に進路を取れ』(1959年)、『サイコ』(1960年)、『鳥』(1963年)……といった映画史上に残る傑作を続々と生みだしたが、それと引き換えに、イギリス時代の作品がまとっていた奇矯なテイストを失っていったように見える。

 
果たしてだれが味方でだれが敵とも知れず入り乱れ、たがいにやることなすこと頓珍漢で、さかんに権謀術数をひけらかす割にはことごとく間が抜けているという、その「ばかばかしく、すばらしい」ありさまとは、昔日の大英帝国の振る舞いと重なるものではなかったか。そうした人間臭い統治方法が、20世紀の覇権国となったアメリカにもはや通用するはずもなく、あくまで現実的で非情な原理が世界を席巻していくことになる。だからこそ、われわれは『バルカン超特急』に永遠に失われた過去の残像を見出して感興を催すのだろうが、しかし、大英帝国のそうしたやり方が、たとえば現在のイスラエルとパレスチナの悲惨な状況をもたらしたことに思いをいたせば、いたずらにノスタルジーに浸っているわけにもいかないのである。
 

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