アナログ派の愉しみ/映画◎ズビャギンツェフ監督『エレナの惑い』

われわれの身近にある
完全犯罪の光景


完全犯罪。それは古来、ミステリー小説における主要なテーマで、真犯人の巧みな手練手管でいかにも成り立ちそうに見えながら、結局、名探偵の推理によって突き崩されてしまうというパターンが多い。あたかも、完全犯罪などとうてい不可能であることを教えようとしているかのように。しかし、果たしてそうだろうか? 現実には、われわれのごく身近なところでふつうに完全犯罪が実行されているのではないか? アンドレイ・ズビャギンツェフ監督のロシア映画『エレナの惑い』(2011年)は、そんな疑いをわたしに起こさせる。

 
主人公のもの静かな中年女性エレナ(ナジェジダ・マルキナ)は、資産家の初老の夫ウラジミル(アンドレイ・スミルノフ)とモスクワ郊外の高級マンションで暮らしている。ふたりは10年前、ウラジミルが腹膜炎で入院したときに看護師のエレナが世話したことで知りあい、それぞれ家庭を持ちながら交際を続けて、おたがいに連れあいを亡くしたのちに晴れて結婚したという経緯があった。

 
ウラジミルには前妻とのあいだに生まれた跳ね返りの娘カテリナがいて、また、エレナのほうは妻子がありながらおよそ働く気のない息子セルゲイの経済援助をしてきたところ、さらに孫のサーシャを大学に裏口入学させるためのまとまった資金まで要求されることに。彼女がそれを夫に伝えると、おれにはお前の家族まで養う義務はない、との拒絶に遭う。そのときのやりとりが興味深い。

 
「あいつの成績では大学は無理だ。軍隊に入れるのがいちばんいい」
「だって、軍隊がどんなところか知っているでしょ?」

 
この映画が撮られたのは、ロシアでプーチン独裁体制に向けての地固めがはじまった時期にあたるが、国民のあいだにはこうした軍隊を厄介者扱いにする空気が充満し、それがやがてウクライナ侵攻に捌け口を見出していったことがわかるのである。

 
そんな会話を交わした直後、ウラジミルが行きつけのスポーツ・ジムで心臓発作を起こし、一命は取りとめて自宅療養となったものの、今後に備えて遺言書の作成に取りかかることをエレナに告げる。その内容は、財産のほとんどを娘カテリナに贈り、後妻のエレナには年金を与えるだけというものだった。これではとうてい自分の息子セルゲイや孫サーシャの要望には応えられない。彼女は初めて夫に正面切って抗議の声を挙げた。

 
「一体、何様のつもりなの!」

 
そこで、エレナはひそかに「バイアグラ」を手に入れると、翌朝、他の常用薬といっしょにウラジミルに服用させた。元看護師の彼女はこの勃起不全(ED)治療薬が心臓に極度の負荷をかけることを承知していたからで、実際、効果はテキメンでたちどころに夫を絶命させた。その後、かかりつけの医師はウラジミルの性欲旺盛ぶりをわきまえていただけに不審を抱かず死亡診断書に署名し、故人に遺言の考えがあったことを知らない弁護士は法定どおり、全財産を二分してカテリナとエレナが相続する手続きを行う。かくして、いったんは自分の手からこぼれ落ちそうになった人生の果実を取り戻したのだった……。

 
まさに見事な完全犯罪というべきだろう。しかも、そこに派手なドラマらしいドラマもなく、真犯人たるエレナはあたかも日常の家事をこなすように淡々と夫の殺害を済ませたのであり、これではどんな名探偵だって出る幕があるまい。もとより、こうした事例はプーチン独裁下のロシアにかぎった話ではなく、どのような国家であれ、どのような社会体制であれ、日常生活における衣食住の実権を握っている妻がもし本気で企てたならば、ことほどさように夫の殺害など朝飯前だろう。おそらく世界じゅうに完全犯罪を実行して何食わぬ顔で暮らしている妻たちはゴマンといるはず、とわたしは睨んでいる。

 
では、夫はいかに対処すればいいのか?

 
「一体、何様のつもりなの!」

 
こうした言葉を妻が口にしたら警戒態勢に入るべきことを、この奇特な映画は教えてくれている。いや、それ以上に、そもそも妻にこうした言葉を吐かせないように常日頃から心がけることが最も賢明な態度なのに違いない。
 

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