アナログ派の愉しみ/映画◎小津安二郎 監督『東京物語』

「私、ずるいんです」
その意味するところとは?


「私、ずるいんです」

 
小津安二郎監督『東京物語』(1953年)の終わり近く、ふいに紀子(原節子)の口をついて出るセリフだ。日本映画史上屈指の名作は、このひと言が支えている、と言ってもいいのではないか。

 
そこでは、ある家族のほんの2週間のありさまが描かれるのだが、かれらの背景を過去へさかのぼって整理してみよう。戦前の広島県尾道市で、市役所に勤める父(笠智衆)と母(東山千栄子)のあいだには、長男、長女、次男、三男、次女の5人の子どもがいた。やがて、上の3人は結婚したものの、太平洋戦争中に息子たちは徴兵されて次男が戦死を遂げる。戦後、長男と長女は上京してそれぞれ内科医院と美容院を開き、次男の未亡人・紀子も東京の会社で働きながらひとり暮らしする。また、三男は大阪の国鉄(現在のJR)に勤務し、未婚の次女は両親と同居して地元で教師をやっている。こうした家族の状況のもとで老いを迎えた父母が、いまのうちに子どもたちに会っておこう、と思い立って東京へ旅立つ。

 
モノクロームの画面に映し出されるのは、ここからだ。すでに戦後8年が経ってようやく首都の活気を取り戻しつつあるなか、客相手の商売にいそしむ長男の一家や次女の夫婦にとって、降って湧いたような両親の上京はありがた迷惑でしかなく、ひとり身の紀子に都内見物の案内を押しつけたり、お金を渡して熱海の騒々しい旅館に追い払ったり……。父は所在なさのあまり「とうとう宿なしになってしもうた」と、同郷の旧友と再会して苦い酒を飲みあかし、母のほうは紀子のアパートで、のんびり肩を揉んでもらって亡き次男の布団に寝る。翌日、帰途の東海道線の車中で体調を崩した母は、尾道の家に辿り着いたとたん危篤に陥り、駆けつけた息子や娘たちの前で人事不省のまま息を引き取った。

 
簡素な葬儀を済ませ、長男・長女が慌ただしく東京へ戻っていったあとで、数日残って世話をしてくれた紀子に対して、父がしみじみと語りかける。血のつながった子どもよりあなたのほうがよくしてくれた、妻も東京ではあなたの部屋に泊まった晩がいちばん嬉しかったと話していた、このうえはもう義理立てせずに相手がいたら気兼ねなく再婚して幸せになってほしい、と。そこで問題の発言のシーンがやってくるのだ。「私、ずるいんです」のセリフは一体、何を意味していたのだろうか?

 
その答えのヒントは、おそらく日本で最も有名な家族に見出せるような気がする。『サザエさん』だ。福岡県在住の長谷川町子が敗戦の翌年、1946年に地元紙の夕刊フクニチで連載したこの四コマ漫画は、ほどなく作者が上京するのにともなって、サザエもマスオと結婚したのをきっかけに家族揃って東京で暮らすことになり、発表舞台も1951年からは朝日新聞朝刊へ移った。つまり、『東京物語』の父母が長男・長女を訪ねた地には当時、サザエの一家もまた生活していたのだ。それは、日本の戦後復興が急速に進むのにつれて、地方から東京へと人々が向かい、現在の一極集中に至る流れがはじまった事情も反映しているだろう。そのころの『サザエさん』に、こんなエピソードがある。

 
ある日、大阪のマスオの実家から電報が届いて、法事に招かれ、サザエは大喜びして観光旅行気分で出かける。実家では、いそいそと姑の肩を揉んだりして、「マスオもやさしいよめをもってしあわせものやなぁ」と褒められたあと、自分たちにあてがわれた部屋へ戻るなりマスオに背中を向け、「ああ、かたがこっちゃった!」とさんざん揉ませる……。

 
この漫画を成り立たせているものは何か。時代背景の1950年代はちょうど、昔ながらの親孝行を当たり前とする家父長制の封建主義と、アメリカから押し寄せてきた夫と妻を対等に見なす民主主義という、まったく逆向きのふたつのベクトルが「嫁」という立場に交錯して、ひとりひとりが自分なりの対応の仕方を求められたのだろう。双方を両立するために、姑の肩を揉む一方で、堂々と夫に自分の肩を揉ませたサザエは、家族の垂直軸の関係と水平軸の関係のいずれも手玉に取ってみせたわけ。

 
紀子も同様だったはずだ。遠来の両親に都内見物の案内をしたり、アパートに転がり込んできた姑の肩を揉んだり、葬儀のあともしばらく実家に居残って舅をいたわったりと、旧来の封建主義と折り合いをつけたうえで、みずから「私、ずるいんです」と独白する以上、必ずや自分の肩を揉ませるようなことも行っていたのに違いない。ただし、サザエの場合と異なり、この世にいない夫の手を借りることはできないから、では、どのような手段を取ったのか。その具体的な挙措はわからないけれど、ひとつだけ、紀子の言葉ではっきりわかることがあり、それがこの映画を古典的な名作に仕立てたのだと思う。すなわち、民主主義とはずるいものなのだ、と――。
 

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