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アナログ派の愉しみ/映画◎伊藤大輔 監督『忠次旅日記』

その恐怖と絶望の
顔つきが意味するものは


日本映画はサイレント(無声)時代に最初の黄金期を迎えたが、それらの作品は可燃性のフィルムで撮影されたため保存性に劣り、太平洋戦争で国土が焼け野原と化したこともあって大半が失われてしまった。そうしたなかで、1927年(昭和2年)に製作・公開された伊藤大輔監督の『忠次旅日記』が60年あまりの歳月を経て、たとえ全体の三分の一ほどの分量であれ発掘・復元されたのは奇跡的といってよく、ソ連(ロシア)映画史の『戦艦ポチョムキン』(エイゼンシュタイン監督 1925年)、アメリカ映画史の『イントレランス』(グリフィス監督 1916年)に匹敵する遺産と評されている。

 
幕末の上州(群馬県)国定村に実在した侠客・忠治(長岡忠次郎)はことあるごとに暴力沙汰を引き起こして磔刑に処せられたが、後年、講談や浪曲などの芸能で権力に反抗したヒーローとして絶大な人気を博した。勃興期の映画界に飛び込んで間もない29歳の伊藤大輔は、この説話的な人物を徹底したリアリズムで捉え直すことを構想して、同い年の俳優・大河内伝次郎を主役に起用して取り組んだのが『忠次旅日記』だ。

 
全体は第1部「甲州殺陣篇」、第2部「信州血笑篇」、第3部「御用篇」の三部立てからなる大作だが、これまでに発見されたのは第2部の一部と第3部の大部分にあたる計89分のフィルムだ(東京国立近代美術館フィルムセンターによってデジタルリマスタリングされた復元・再染色版は106分)。したがって、物語の前段を占めているはずの忠次の颯爽としたヒーローぶりは目にできず、画面に立ち現れるのはすでに尾羽打ち枯らして赤城山から出奔したのちの無残なありさまだ。しばらくは偽名で世間にひそんでいたものの、やがて正体が露見すると、持病の中風のせいで身動きもままならぬ肢体を戸板にのせられて、結局は故郷の国定村へと舞い戻ってくるしかなかった。

 
 八州一の大親分とも 立てられた人が
 僅か三坪に足らぬ 井戸の底にさへ
 落付いて居なさる事が 出来ぬとは……

 
これは、そんな落魄の忠次を迎え入れた情婦のお品のセリフだ(もちろん、サイレントなので字幕で示される)。彼女が嘆いてみたとおり、捕り方の目をくらまそうと井戸の底に隠れても手下の裏切りにあってご破算となり、せめても四方を壁に守られた土蔵に転じたところが、たちまち雲霞のごとく御用提灯を掲げた役人どもが殺到してくる始末。せんべい蒲団にくるまった忠次はもはや手にした刀を鞘から抜くことさえ叶わず、ひたすら顔を引き攣らせるばかりだった。およそ娯楽映画の場面とは思えない、恐怖と絶望に歪んだ凄まじい形相は一体、何を意味するものだったろう?

 
 犬はまたせまった! 源吉は犬の方に向き直った。そして塀に背をもたせ、背中でずって立ち上った。皆んな思わず其の方を見た。こっちに向けた顔はすっかり血だらけで分らなかった。その血が顎から咽喉を伝って、すっかりムキ出しにされて、せわしくあえいでいる胸を流れるのが分った。立ち上ると源吉は腕で顔をぬぐった。犬の方を見定めようとするようだった。

 
この映画が製作・公開された年に、北海道の小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の『校友会々誌』に掲載された短篇小説の一節だ。十勝岳山麓の作業現場から逃げだそうとした土工夫の源吉は捕らえられると、雇い主の大将から見せしめとして、衆人環視のもと狂暴な土佐犬をけしかけられる。その源吉の恐怖と絶望に絞めつけられた顔つきは、赤城山のふもとの土蔵で捕り方に取り囲まれて手も足も出せずにいる忠次の最後の表情と同じものではなかったか。小説につけられた題名は『人を殺す犬』、作者は23歳の北海道拓殖銀行の行員、小林多喜二だった。

 
大正から昭和に移りゆく時代のうねりのまっただなかで、新たな世代の小林多喜二と伊藤大輔はそれぞれに、社会の底辺にあって権力に打ちのめされ「僅か三坪に足らぬ」居場所さえ見出すことのできない人間の姿を真正面から凝視した。そして、前者は「プロレタリア文学」、後者は「傾向映画」と称された新興芸術の最前線に躍りでたのだった。ほんの束の間だったにしろ。このときから6年後の1933年(昭和8年)、小林多喜二が築地警察署で特高(特別高等警察)の手によって拷問死を遂げたころには、これらの表現手段はすっかり鳴りをひそめて、日本は暗黒の時代へとひた走っていったのである。

 


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