アナログ派の愉しみ/音楽◎『カーネギー・ホール』
そこは人類史上、
空前絶後の音楽の殿堂だった
アメリカの大富豪アンドリュー・カーネギーの手により、1891年、ニューヨークのマンハッタン街におそらく地球上で最も有名なコンサート・ホールが誕生した。エドガー・G・ウルマー監督の『カーネギー・ホール』(1947年)は、この音楽の殿堂を主役にした映画だ。ホールの掃除婦がひとり息子を音楽家に育てるため、ここで実地教育を体験するというストーリーは額縁のようなもので、そこに収められた中身のほうに価値があるわけだが、文字どおり目を疑うばかりのシーンの連続に圧倒される。
はじめは、ブルーノ・ワルターがニューヨーク・フィルを率いたワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲だ。まさに大伽藍のごとく堂々とした演奏で、われわれに馴染み深い後年の穏やかなワルターからは想像もつかないエネルギッシュな指揮ぶりなのだ。こうした演奏が実現したのは、第二次世界大戦が終結してまだ2年しか経過していない時点で、かつてナチス・ドイツによって祖国を追われたユダヤ人のワルターが、そのナチスのテーマ曲に使われた『マイスタージンガー』の呪縛をこのカーネギー・ホールで解こうとしたからではなかったか。音楽の倫理的な力を確信していたというワルターならではの貴重なドキュメンタリーだ。
ポーランド出身のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインがショパンの『英雄ポロネーズ』とファリャの『火祭りの踊り』を演奏するシーンも凄い。すっくと背筋を伸ばしてピアノに向きあう姿勢は、このとき60歳だったとは思えないくらい美しく、ときに両手を高々と持ち上げ鍵盤へダイビングさせて美音の飛沫を撒き散らしていくさまは名人芸と言うしかない。そんな派手なショーマンシップを披露したあとで、万雷の拍手のなかをステージから引き揚げてくると、ピアノを学ぶ少年に対しては「猛練習しなさい、バッハ、バッハ、とにかくバッハを!」とのご託宣に、わたしは開いた口がふさがらなかった。
そうかと思うと楽屋では、イタリアのバス歌手、エツィオ・ピンツァがモーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の題名役を演じるにあたって用意された衣装に文句をつけている。わたしはこの伝説のスターが動く姿を初めて目にしたのだが、やがてピアノの伴奏に合わせて『シャンパンの歌』をうたいはじめ、その声が次第に熱くたぎり、最後は雷鳴のような哄笑をもって結ばれる。あるいはまた別の楽屋では、指揮者のフリッツ・ライナーとヴァイオリニストのヤッシャ・ハイフェッツがチャイコフスキーの『ヴァイオリン協奏曲』の準備をしていて、ハイフェッツが落ち着きなく歩き回りながら「カーネギー・ホールは世界じゅうのヴァイオリニストが夢見る舞台だ。だから独特の感情が湧いてくる」と洩らすと、ライナーも「みぞおちのあたりがキリキリするんだな」と相槌を打つ。しかし、そんなふたりもステージに上がったとたん、威風あたりを払ってめざましい演奏を繰り広げていく……。
これらはまさに20世紀初頭から中葉にかけてのクラシック音楽のシーンを凝縮したものだ。カーネギー・ホールという、ヨーロッパの文化・芸術の蓄積からほど遠い地に莫大な資金を投じて建立された現代のバベルの塔の、それはマジックだったろうか。あまつさえ、2度の世界大戦によって多くの音楽家たちが新天地を求めざるをえなかった事情もあいまって、このとき人類史上における空前絶後の現象が出来したのだ。
この映画の制作から30年後の1976年、カーネギー・ホールの創立85周年を記念して開催されたイヴェントの模様が『史上最大のコンサート』というCDに記録されている。このときは稀代のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツが八面六臂の活躍をし、スターン(ヴァイオリン)、ロストロポーヴィチ(チェロ)と組んでチャイコフスキーのピアノ三重奏曲『ある偉大な芸術家の思い出のために』を演奏したり、フィッシャー=ディースカウ(バリトン)がうたうシューマンの歌曲『詩人の恋』に伴奏をつけたり、しまいにはヘンデルの『ハレルヤ』を他の出演者とともに合唱したり。あの気難しい天才がどういう風の吹き回しだったのか。これもカーネギー・ホールのマジックがもたらした奇跡であり、と同時に、その栄光の時代を照らす最後の光芒でもあったろう。