アナログ派の愉しみ/映画◎トリュフォー監督『アデルの恋の物語』
文豪ユーゴーの
実の娘が辿った恋の道のり
1863年、イギリスの植民地だったカナダの州都ハリファックスの港に、商船からひとりの淑女が降り立った。彼女は英仏海峡に浮かぶガーンジー島で両親と暮らしていたが、そこに駐留した第16英軽騎兵連隊の将校と恋愛関係になり、間もなく連隊がハリファックスへ移動すると、両親の反対を押し切って追いかけてきたのだ。
フランソワ・トリュフォー監督の『アデルの恋の物語』(1975年)はこんなふうにはじまる。主人公の淑女アデル(イザベル・アジャーニ)は下宿屋に間借りして、恋人の将校ピンソン(ブルース・ロビンソン)にせっせと手紙を書き送るものの返信はなく、ようやく再会を果たした相手から訣別を切りだされる。男と女のあいだの思い込みの落差がもたらした破局。それ自体は必ずしも特別な出来事ではなかったろうが、この場合において非常に特別だったのは、アデルがフランスの大文豪ヴィクトル・ユーゴーの実の娘だったことだ。
そこで、わたしはどうしたってユーゴーの代表作『レ・ミゼラブル』(1862年)に登場するエポニーヌを思い浮かべてしまう。ひそかに革命派の学生マリユスに恋心を抱きながら、かれの愛情が自分ではなく、ジャン・ヴァルジャンの庇護のもとにあったコゼットに向けられていることを知ると、その恋の成就に手を貸し、学生や市民が蜂起したパリ六月暴動ではバリケードに乗り込んで、わが身を挺してマリユスを敵の銃口から守ったうえ、こんな言葉を残して死んでいくのだ。
「ああ、なんていい気持ち、ほんとにいい気持ちだわ! ほら、もう苦しくない、あたし幸せだわ!」
しかし、アデルが辿った道のりは、この純情可憐な少女とはずいぶん異なるものだった。彼女は手紙でピンソンと正式に結婚することが決まったと父ユーゴーに通知し、新生活の資金を送らせたあと、そのニュースが新聞ダネになってウソがばれると、すべての責任をピアソンに押しつけて苦境へ追いやる一方で、自分の寛大さを示すために娼婦を雇ってかれの部屋に届ける。あるいはまた、ピアソンが地元の名家の令嬢と婚約したとのウワサを聞きつければ、すぐさまその家に出向き、服の下に枕を忍ばせた腹部を指してかれの子を宿していると告げて……。
それだけにとどまらない。やがて第16英軽騎兵連隊にカリブ海のバルバドス島への移動命令が下ると、どのような手を使ったのか、アデルもまたこの熱帯の島に姿を現して、ボロボロのなりでさまよい歩きながらピアソン夫人を名乗り、そのくせ当のピアソンを目の前にしても気づかないありさまだった。ことここに至って、ついに祖国フランスへ送還する手続きが取られ、父ユーゴーの承認によって精神病院へ収容されると、そこで40年間の後半生を過ごしたのち、1915年に85歳で世を去ったという。
実話にもとづく映画が伝えてくるものは、果たしてなんだろうか? アデルは父親譲りの文才があったようで、おびただしい日記や手紙が作中に引用されているが、かつてまだ出会ったばかりの将校ピアソンのあとを追って、両親の住むガーンジー島を出奔したときには、こんな文言を書き残した。
何も持たない若い娘が
四年後には黄金をつかむのだ
自分自身の黄金を
若い娘が古い世界を捨て
海を渡って新しい世界に行くのだ
恋人に会うために
古い世界から新しい世界へ――。つまり、こういうことだろう。『レ・ミゼラブル』のエポニーヌが革命に沸き立つ社会の熱気のなかで恋を燃えあがらせたのに対して、アデルは逆に恋が燃えあがることで自己の内側に革命を沸き立たせたのだ。したがって、はなから世間の道義と相容れるはずもなく、恋人のための自己犠牲などちゃんちゃらおかしいものだったろう。結局、その行き着く先は狂気の闇でしかなかった。
ことによると、そんなアデルが体現してみせたのは、今日われわれのいう「ストーカー」の原理なのかもしれない、とわたしは疑っている。